朴槿恵退陣を要求するろうそくデモ〔PHOTO〕Gettyimages
# 韓国

韓国の民主主義はなぜ「脆弱」なのか〜強権的な政権が生まれる構造

映画『1987』から考える

なぜ強権的な政権が「回帰」してくるのか

1980年の光州事件を描いた『タクシー運転手 約束は海を超えて』の大ヒットの余勢を駆るように、さる9月8日に封切られた韓国映画『1987、ある闘いの真実』がまたしても好調なようだ。

本作が描くのは、わずか30年ほど前の陰惨な史実だ。1987年1月、朴鍾哲(パク・ジョンチョル)というソウル大生が、学生運動幹部である先輩についての取り調べ中、水責め拷問で亡くなるという事件が起きた。警察は死因を「心臓麻痺」と偽り、証拠隠滅のため、釜山の家族に知らせる前に遺体を火葬してしまおうと企てる。

オリンピック開催を翌年に控え、全斗煥(チョン・ドファン)の軍事独裁政権は「北の脅威」を言い立てて「北風」を煽る政治を強めていた。

「コリアン・ポリティクス」編集長の徐台教(ソ・テギョ)によれば、朝鮮半島には、分断による危機を理由に正当化された抑圧と暴力、軍事文化をさす「分断暴力」なる言葉があるという。思想犯への拷問はその最たる例だ。当時、多数の連行者たちが「アカ」の罪状を着せられ、拷問に次ぐ拷問で自白を強いられ、心身を破壊されてしまったという。

朴鍾哲事件は南営洞(ナミョンドン)警察「対共分室」の密室で発生したが、真相が闇に葬られることはなかった。現場で死亡診断をした医師の勇気ある証言を機に、民主化運動家だけでなく、記者が、検事が、法医学者が、刑務所看守がーー、そういう「普通の人々」が各自の持ち場で信念を貫き、巨大権力の暴虐に抗おうと行動を起こす。

本作は実在人物たちをモデルに、実名による厳密な事実関係の復元に基づいて、韓国社会が民主化に向かう歴史的動態の一局面を克明に描き出す。

映画『1987、ある闘いの記録』公式サイトより

歴史を動かした主体はこれら登場人物たちだけではない。前途ある若者の命を虫けらのようにいたぶり処理した軍事政権の暴力に抗して、全国的規模で階層や世代を超えた民主化闘争が怒涛のように展開された。

続いて6月に起きた李韓烈(イ・ハンニョル)の催涙弾被弾事件は、政治から距離をおく多くの人々を街頭デモへと駆り立て、全斗煥大統領に事実上の引導を突きつけた。映画で唯一の架空人物である女子大生ヨニが示す心の機微は、韓国現代史を内在的につき動かした無数の市民たちの表象である。

 

「タクシー運転手」と同様、本作も朴槿恵(パク・グネ)政権による芸術検閲の抑圧下で制作が始動した。一部の映画監督や俳優を対象に「ブラックリスト」が作られていたほどの強権的な政権である。

朴鍾哲と李韓烈の死に象徴される分断暴力による夥しい犠牲を礎に、やっと勝ち取られた1987年6月の民主化宣言。それが李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵の政権で見るも無残に破壊された現状に足を踏みしめ、改めて「1987」とは何だったのかを問い、再び民主主義を鼓舞しようとしたのが本作ではないだろうか。懐古趣味の歴史ドラマでも、迫真的な拷問シーンやアクションを売りにした娯楽映画でもなく。

無数の人々が巨大権力に抗して立ち上がり勝利したのに、なぜ30年後の今、民主社会の国民である我々がこうなってしまったのか。あれが「未完の革命」だったとすれば、それは一体なぜなのか? 本作からは、韓国の人々のそんな切実な思いが透けて見える。

尊い犠牲を払って「民主化」を勝ち取った韓国で、なぜ強権的な政治が再現されてしまうのか? その疑問を解くためには「漸進的民主化」と「記憶の闘争」という二つのキーワードをもとに、過去30年間の韓国社会の歴史的動態を振り返る必要がある。