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最近の「大学改革」論議がどうでもいいと思えるのは一体なぜ…?

青くさい理想論だが机上の空論ではない

「大学改革」という言葉が踊るが…

最近、新聞やWEB記事などで「大学改革」の四文字が目に止まるのは、大学に勤める私だけではないと思います。安倍政権にて大学改革が本丸とされ、今年9月発刊の「月刊経団連」の特集は、ずばり「大学改革」。

また、8月の読売教育ネットワークの「国立大学よ、世界を見てくれ」と題した赤石浩一氏(内閣府政策統括官)のインタビュー記事も話題になりました。10月に入ってからも日経新聞記事「研究分野の新陳代謝促す 財務省、若手の処遇改善提言へ」など、枚挙に暇がありません。

このような霞ヶ関でなされる官僚や大学の大御所、そして企業トップらの議論や提案に対して、

「もう、どうでもいいわ……」

そういう悲痛なため息が、教育、研究の最前線にいる大学人から聞こえてきそうです。このような文から始めると、以降、現場を知らない政策批判が続くと思われそうですが、ここで読者の方には早とちりしないでほしいです。

過度の成果主義、業績主義が大学にも横行し、世間からはイノベーション駆動装置としての機能しか大学に求められなくなったのは、「政策」のせいでもなければ、「企業」のせいでもない。「大学」のせいだと思っています。

なぜなら、ほとんどの行政人、企業人、知識人らは大学出身なのですから。最低4年間も学問に触れさせておきながら、(現代風にいうなら)そのファンにさせられない大学は、ちょっと問題だと思います。

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学問の経済社会への実利的貢献というものは、いうならば「なぜこの世があるようにあらしめるのか」といった不可知への絶句、そしてそれを意識する存在としての人間精神への不断なる深求という学問の営みにおいては、あまりに小さな付随的結果でしかないでしょう。

正しくまっとうに学問を担う人間(=学者、≠サラリーマン研究者)にとって、先に挙げた大学改革の主題「イノベーション駆動装置としての大学」という言葉が空虚に聞こえるのはそれゆえです。

 

物的な豊かさが心的な豊かさと合致しないことは様々な調査結果でも、そして我々の実体験や日常感覚でもわかりきったこと。

ある大学教員が研究者のまえに学者であるなら、いずれ物的に無となる人間が物的な価値をありがたがるとはそもそもどういうことかを問うでしょう。

そして、自らの専門という限界を感じつつも、なんとかこの世、この人間、この意識を記述してみたいともがくのでしょう、それが不可能と知りながらも。

考え尽くさねば死ねぬ。そういう学者の精神に触れた学生がまた、4年間をその「学問」に捧げるのでしょう。あぁ、ここには何かある、言葉にできない本当の何かが、といった具合に。

生身の対話でも書物でも実験でもいい、大学における何かを通じて感染にも似た精神の交情が学問を担う大学教育の本来の姿であり、カリキュラムのあり方や質保証云々を言う前に、何より先にそれが保たれているかどうかを改めて点検するのが先であるように思います。