小説の書き方を思い出させてくれた「ある決断」

言葉が自然と浮かび上がってきた
藤井 太洋 プロフィール

感動と痛みを薄めたくなかった

全てが画面の中で推移するので物語としては描きにくいし、コンピューターのソフトウェア開発者でも意見が分かれるテーマにも踏み込まなければならない。

わかりやすくするための単純化は、ある段階を越えればただの噓になり、私の作品を好きだといってくれている読者はそっぽを向いてしまうだろう。

何より私は、自分で書いたプログラムが世界と繫がったと感じたときに味わった光と人を動かしたと知ったときの感動、そして傷つけたことを知ったときの痛みを薄めたくはなかった。

舞台と事件は私が体験した2010年のアラブの春から、ごく近い未来のインドネシアへ変更し、主人公が作っていたのも、ツイッター投稿用のアプリから、iPhone用の広告削除アプリへと変更した。

photo by iStock

主人公、文椎泰洋の造形には悩んだが、結局は自分の分身にすることにした。独身だったり、禁煙を済ませていたり、そして私よりもほんの少しだけプログラムを書けたりするような差異はあるが、彼が世界に対して関わっていくやり方は、おおむね私と変わらない。

結果的に、この決断が小説の書き方を思い出させてくれた。

筆はもちろん止まる。それでも自分の中でシーンを再現すれば、次に主人公が発する言葉は自然と浮かび上がってくるのだ。気がつくと私は、自分の分身ではない他の登場人物に対しても、同じことができるようになっていた。

 

コンピューター越しに感じる温度

題名は“Hello, world!”にした。

Hello world.ではなく、Hello, World.でもない。Helloの後ろにはカンマと空白文字。小文字はじまりのworldのあとにエクスクラメーションマークを置くこのテキストは、プログラマーが新しい開発用言語を覚えるときに、必ず一度は画面に映し出す文字列だ。

書き終えた私は、そのあとも単行本が出せない2年間を過ごすことになるのだが文椎シリーズだけは、いつでも気負うことなく書きはじめられた。

書くことはいくらでもあったのだ。

自分がこれほどまでに、コンピューター越しに感じる温度と、手触りと、未来と過去と人々のことを伝えたかったのかと驚いた。

約束します。

あなたの知らないインターネットと、そこから見える景色をご覧に入れましょう。

好評発売中!