この復元には、従来のヘーゲル「歴史哲学」を覆すインパクトがある

『世界史の哲学講義』を読む
伊坂 青司

中国の「最高度の文化」への評価

第2版の「序論」では、世界史を〈東洋では一人が、ギリシア・ローマ世界では何人かが、ゲルマン世界では万人が自由であることを知っている〉とする周知の自由の発展図式が繰り返され、この図式がヨーロッパ中心の進歩史観という通念を流布させてきた。

しかし人数によって単純化された図式は、初回講義の中には見られない。見られるのはむしろ中国の「最高度の文化」への評価であり、ブッダの悟りや差別を破壊するイスラームにおける「自由」の精神への眼差しである。

逆に、万人が宗教的には自由であるはずのドイツについて、自由に程遠い現実を論じざるをえなかったヘーゲルの本音が聞こえてくる。

 

自由の意識の発展という時間軸と地理的自然という空間軸の統合にこそ、「世界史の哲学」講義の原型があった。

しかし旧版では、初回講義の「序論」の中で論じられていた地理的自然の基本的な位置づけの部分は大幅にカットされ、地理的自然を土台とした多文化主義的な視点が希薄になってしまった。

諸個人の情熱こそが歴史を推進してきた

もう一つ、初回講義に見られないのに通念として流布してきたのは、「理性の狡知」という概念である。

確かに旧版では、理性が世界史を支配し、その手段として人間の情熱が犠牲に供されるという理性中心の図式が目立つ。

しかし初回講義では、むしろ諸個人の情熱こそが歴史を推進してきたという、諸民族や歴史的英雄に寄り添った論述が際立っている

こうした自由の意識の数的な発展図式や理性の上から目線の歴史観が、ヘーゲル自身の経年変化によるものだとしても、初回講義の原型を織り込むことができなかった旧版の編者の責任は重いことになろう。

初回講義が復元された『世界史の哲学講義』には、従来のヘーゲル「歴史哲学」の通念を覆すほどのインパクトがある

それはこれまで一般に通用してきた「歴史哲学」の通説にヘーゲル自身が修正を迫るとともに、世界史の転換期を迎えつつある現代に新たな視点を提供するものでもあると思われる。

本邦初!初回講義を完全に再現