「延髄蹴り」は正確な医学用語でいえば間違いだった

覆面ドクターのないしょ話 第37回
佐々木 次郎 プロフィール

「顔面神経痛」なるものは存在しない!

さて、昔々、私が子どもの頃、テレビを見ていたら、ある芸能人がこう言っていた。

「顔面神経痛になって、顔が動かなくなっちゃったんです」

その芸能人は、「顔面神経痛」になって、顔の片側の筋肉が動かしにくくなり、やっと治ったという。

 

このような話を聞く度に、父が口を酸っぱくして幼い私にこう言ったものだ。

「いいか次郎、顔面神経『痛』というのは間違いだ。この場合は、顔面神経『麻痺』だぞ。なぜなら……」

注意が必要なのは「顔面の神経」と「顔面神経」とは意味が異なるという点だ。高校の古典の授業で、清少納言の枕草子に出てくる「五位の蔵人」と「蔵人の五位」とでは意味が違うということを習った。同様に、神経に関するこの両者も意味する所は違う。

少々専門的になって申し訳ないが、解説させてほしい。

「顔面の神経」とは、ただ単に顔面を走行している神経という意味である。

一方、「顔面神経」とは固有名詞で、脳から発して深部を走り、耳前部から顔の表層付近に出現し、顔の筋肉を支配する。「顔面神経」が機能不全を起こした状態を「顔面神経麻痺」といい、顔の筋肉が動かしにくくなる。筋肉を動かす運動神経であって、痛みを感じる神経ではないので、障害を受けても痛くない。よって、顔面神経「痛」は存在しないというわけである。

ここで素朴な疑問が生じると思う。

「では、顔の神経痛を何と表現するのか?」

答えは「三叉神経痛」である。

余談だが、「顔面神経」と「三叉神経」は脳から直接起始する脳神経の一種で、その他のものを合わせ、脳神経は左右で12対ある。

「脳神経12対を順番にすべて答えよ」

私が学生の頃は、これが解剖学の口頭試問でよく出題された。1に暗記、2に暗記……で、私もずいぶん苦しめられ、解剖学の口頭試問とはまさに「口頭死悶」だった。ちなみに、「三叉神経」が第5脳神経、「顔面神経」は第7脳神経である。

以上、御理解いただけ……なくてもよいのだ。医者の息子に生まれると、子どもの頃からこんな面倒くさい理屈を親から聞かされるという、私の苦難の生い立ちをお察しくださればありがたい。

「あれは小脳蹴りなんだよね」と医者は言うが……

最後に、医学用語の誤用かと思われる例も検討したい。

2018年9月11日アントニオ猪木が北朝鮮を訪問した。久しぶりにメディアの前に登場した。アントニオ猪木といえば……「延髄蹴り(延髄斬り)」だ。

「燃える闘魂!」
「猪木ボンバイエ!」

彼の得意技は「卍(まんじ)固め」「コブラツイスト」など色々あるが、「延髄蹴り」は最強の必殺技である。

これは飛び蹴りの一種であるが、アントニオ猪木の場合は、空中に高く飛ぶのが特徴だ。まず、相手のプロレスラーの頭の高さまでジャンプする。その高さで体をリングの床と平行にする。この状態から後頸部の盆の窪付近に回し蹴りを繰り出す。これが「延髄蹴り」だ。

モハメド・アリ戦で、のちに「アリ・キック」と命名される蹴りで攻撃する猪木。この頃はまだ「延髄蹴り」は開発されていない

延髄という器官をご存知の読者もいらっしゃると思うが、その位置を再確認しよう。

脳は大脳・小脳・脳幹の3つの部位からできている。大脳の下に小脳と脳幹が位置する。脳幹はさらに、中脳・橋(きょう)・延髄から構成されている。小脳と延髄はほぼ同じ高さにあり、前方(のど側)が延髄、後方(背中側)が小脳である。

雨傘をさした人を横から見た絵をイメージしていただきたい。傘の部分が大脳、顔の前にある中棒(心棒)が延髄、人の頭が小脳という位置関係である。

アントニオ猪木の延髄蹴りはジャンプして、頸部の後方からキックする。だから、たいていの医者は専門家ぶってこう言う。

「あれは『小脳蹴り』なんだよね」

確かに、延髄を直接蹴っているわけではない。「延髄蹴り」という言葉を使いたいなら、「経小脳的延髄蹴り」と表現するのが医学的には正解かもしれない。

だが、私は「延髄蹴り」が正しいと思う。なぜなら、この技の真髄はどこにあるのかを考える必要があるからだ。機能的に、延髄には呼吸中枢がある。呼吸中枢だから文字通り、ここを攻撃されたら息の根が止まる。アントニオ猪木の恐るべきところは、この技によって相手を一発で仕留めたことである。やはり、彼の必殺技は「延髄蹴り」と呼ぶのがふさわしい。

今後、アントニオ猪木がリングに立つことはないだろうが、「延髄蹴り」とともに「コブラツイスト」「卍固め」といった必殺技は若い世代にぜひ継承してほしいものである。