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俵万智さんが読み解く、歌人と人妻の「複雑すぎる恋の行方」

〈恋は、いつ始まるのだろうか〉

苦しい恋から名歌が生まれた

――ベストセラーとなった歌集『サラダ記念日』の著者である俵万智さんが、旅と酒を愛し、広く愛誦される名歌を残した稀代の歌人、若山牧水の歌を読み解いた『牧水の恋』。今回、〈恋〉に焦点を当てて、牧水の評伝を書かれたきっかけを教えてください。

牧水の歌は高校時代から読んでいたのですが、2006年に『プーさんの鼻』で牧水賞をいただいたのを機に、評伝や研究書を読むようになりました。その中で、衝撃的な事実を知ったんです。

ある年、牧水は恋人・小枝子と房総半島の根本海岸に旅行するんですね。そこで恋の成就を高らかに歌いあげる絶唱歌を何首も詠んでいるのですが、実はその旅行は、二人きりではなく、恋敵ともいえる従弟が一緒だった。

「え、牧水の恋はどうなっていたの?」という疑問がずっと自分の中でくすぶっていて、連載の話をいただいたとき、これを書きたいと思いました。

――早稲田大学の学生だった若き牧水は美しい小枝子と恋に落ちます。が、小枝子は実は人妻で、子供もいるなど、初恋にしては複雑すぎる現実が待ち受けていました。

牧水は真っ直ぐに小枝子にぶつかっていく純粋な人で、小枝子もそんな牧水に惹かれたのだと思います。

だからこそ、恋の歌といえば片思いや失恋など、心が満たされなくて生まれるものが多いなかで、牧水は恋愛成就を歌った絶唱歌を残している。小枝子との恋がいかに素晴らしいものだったか、よくわかります。

 

ですが、それだけに、小枝子が人妻だと知って、牧水はのたうちまわることになるんですね。ただ小枝子は、牧水を手玉にとってやろうというような悪女タイプではないんです。結婚していて子供もいることへの葛藤はあったでしょうし、それが独特の陰となって美しさに磨きをかけてもいた。

そういう女性だけに、ますます牧水はのめり込んでいったのだと思います。

――小枝子との関係は出会いから5年で終焉を迎えます。この苦しい恋から、牧水は多くの名歌を生み出しました。〈幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく〉もそうですね。

牧水というと酒や旅の歌人というイメージが強いですが、あの歌もこの歌も実は小枝子との恋から生まれたんだと知って驚きました。歌は心が揺れ動いたときに生まれるものですが、その最たるものが恋ですよね。

――本書では、そうした牧水の歌を俵さんが丁寧に読み解いています。短歌を鑑賞する面白さも存分に味わえる本です。

評伝の書き方はいろいろありますが、歌人の私としては、牧水を知りたいと思ったら歌を読むのが近道だし、深く入り込めるはずだと考えました。私自身もエッセイを書いたり、こうしてインタビューで喋ったりもしますが、いちばんの心の秘密は歌に込めている。牧水もきっとそうだろうと思ったのです。

牧水の歌を読み解きながら、あらためて、一首の歌に張り付いている人生の重みを感じました。名歌は一朝一夕には生まれない。だからこそ凝縮された31文字で、1000文字分も、それ以上をも伝えることができるのです。