2019.02.03

科学研究への投資が「ムダ」であるべき理由

日本人が失いつつある「大切なこと」
中屋敷 均 プロフィール

また、公的な競争的資金でも、厳しく使用目的が制限されているものがあり、先日、私が参画したあるプロジェクトでは、

「このプロジェクトに参画している先生が、『私の研究に研究費を頂きありがたい』と言われたが、勘違いも甚だしい。このプロジェクトの研究費は、プロジェクトを成功させるためにあり、先生方の研究に使うものではありません」

というようなことを言われた。

これまでであれば、プロジェクトとは言っても、大枠の中にさえ入っていれば、あとは自由に研究をして下さい、というスタンスが普通だったから驚いた。時代は変わり、金をもらった以上、言われたように働け、ということのようである。

 

迫り来る「システムの支配」に抗う

前回も同じようなことを書いたが、こういった趨勢は、研究費という資源の配分を利用して、「システム」が科学を支配しつつある現状のように映る。科学の現場の自由度が奪われ、「システム」から独立した「変異」としての役割が、力を失いつつあるのだ。

科学が「変異」として機能するのは、様々な個性を持った研究者達が自分の興味に忠実に研究を行うからである。その時の社会からの要請、すなわち「環境条件」に引きずられてしまっては、方向が限定されてしまい、進化の両輪たる「システム」のアンチテーゼとなり得ない。

こんなことを言うと怒られるだろうが、だから科学に対する投資というのは、本質的に「無駄」なものだ。少なくともその覚悟を持って行うべきなのだ。一人一人の科学者が、本当に何かを知りたいと思っている。

そういった、理由もよく分からない妙なこだわりのような〝いびつな情熱〟こそが、ランダムな「変異」の源であり、本当に新しいものを生み出す可能性の芽なのである。それは時に、合理性という枠からはみ出ており、その人以外、誰もやらない、興味も持たない。しかしだからこそ、そこに価値があるのかも知れないのだ。

こういった主張には、科学者の我儘、という批判もあるだろうし、科学技術予算のすべてを、そんな「無駄」に投資するのが、適切なのかと言えば、恐らくそれもそうではないだろう。しかし、「システム」が科学を支配してしまえば、そこから本当に新しいものは、もう何も出てこない

今、大学では何か大切なものが力を奪われつつあり、そのスピードは時と共に加速されているように思う。学問の自由、大学の自治。それはイデオロギーではなく、本当に新しいものを生み出す場として、必須の要素であったのだ。

変わりつつある大学。その現状を心から憂えている。

(本稿は『科学と非科学――その正体を探る』(講談社現代新書/2月13日発売)第11話を一部改変したものです)

現代において、「非科学的」というレッテルは、中世の「魔女」のような「異端」の宣告を感じさせる強い力を持っている。社会に存在してはならないもの、前近代的なもの、というような響きである。それは科学の万能性、絶対性が現代社会では無邪気に信じられているということの証でもある。しかし、はたして科学という体系は、本当にその絶大な信頼に足るほど強靭な土台の上に建っているものなのだろうか? 「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく「断罪」できるものなのか? 「科学的な正しさ」があれば、現実の問題は何でも解決できるのだろうか? 科学と非科学の間に大きく広がる、そのはざまに一体、何があるのか? 分子生物学者が現代社会の「薄闇」に光をあてる――。(『科学と非科学――その正体を探る』「プロローグ」より)

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