2019.02.03

科学研究への投資が「ムダ」であるべき理由

日本人が失いつつある「大切なこと」
中屋敷 均 プロフィール

「放射線に耐える奇妙な果実」

一つの例を挙げてみよう。縁起でもない話ではあるが、もし核戦争が起こり地球上の放射線量がとてつもなく高くなれば、人類は滅亡することになる。一般的に、強い放射線は生物種を問わず致死的に働くので、人類のみならずすべての生物が死に絶え、地球が死の星となってしまう、そんなことも理屈の上では起こり得る一つの未来の姿である。

しかし、恐らく実際にはそうならない。なぜなら世の中には「変な生き物」がいるからだ。たとえばDeinococcus radioduransという微生物は、日本語に訳せば「放射線に耐える奇妙な果実」という、へんてこな名前がつけられており、人間の致死量の1000倍近い放射線に曝されても平気で生きている。

この種の細菌は、たとえば小川や草原といった、ごくごく普通の環境で見つかり、特に放射線量が高い場所に棲んでいるということもなく、どうしてそんなに放射線に強いのか、よく分かっていない。そんな性質を持っていることは、人間が実験をして初めて分かったことである。

一般的な微生物は放射線に弱いので、これはD. radioduransに起こった「変異」の一つと考えることができると思うが、普通の生物より放射線に1000倍強いという能力が活かされる機会など、現実には訪れない可能性もあるだろうし、まったく「無駄」な性質を備えているようにも見える。

しかし、そんな変な生き物がいることで、たとえ人類が核戦争という愚かな間違いを犯し滅んだとしても、「生命という現象」自体は、この地球上で恐らく途切れることなく続いていくことになる。

だから、このような生物の多様性を生み出す「変異」は、自己複製を担う保守的な「システム」と両輪を成し、生命の存続を支えている大切な要素となっているのである。そして「変異」は、「無駄」と罵られようが「システム」の論理から独立し、ランダムで特定の方向性を持たないことが、その本質として重要なのである。

科学の本質は「変異」である

社会における科学の役割というのは、生物進化におけるこの「変異」のようなものではないかと、私は思っている。もちろん「システム」の環境への適応度を上げること、つまり現実の社会のニーズに応えることも科学の一つの役割ではあろう。しかし、科学の持つ本質的な意義は、「システム」にこれまでになかった新しい「変異」をもたらすことではないかと思うのだ。

しかし、近年、そういった「変異」としての科学が日本で少しずつ衰退している。

2014年のOECDにおける基調演説で、安倍晋三首相は「大学の特許出願のうち、アメリカでは15%程度が新たなビジネスにつながっていますが、日本では0.5%程度しかない。(中略)学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」と述べた。

こういった大学の研究力を産業に利用することは、たとえば企業と大学の共同研究のような形で以前からあったが、近年の競争的資金重視の趨勢から加速されている感がある。共同研究の多くは、大学で企業のための技術開発や委託解析のようなことをやり、その代わりに研究費を頂くものである。

その結果、何が起こるかと言えば、大学院生が企業の研究員のように、企業に必要なデータを出したり、技術の開発に勤しむということになる。本来、大学院生の研究は大学教育の一環であるのだが、それが研究費を出してくれた企業のために働くようなことになる。仕方ない、と言ってしまえばそれまでだが、どこか違和感がある状況でもある。

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