いかにして「特攻」は始まったのか? すべてを見ていた副官の証言

74年前の今日、最初の特攻隊、突入す
神立 尚紀 プロフィール

特攻の生みの親となった大西は開戦に反対していた

日本海軍屈指の歴戦の搭乗員でありながら、特攻隊の一員となった角田和男少尉は、大西中将の片腕である参謀長・小田原俊彦大佐から、大西中将に「他言無用」と言われていたという特攻の真意を聞かされている。それは、要約すれば、特攻は、

「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」
 
というものだった。

 
角田和男少尉。大西中将の「特攻の真意」を、小田原参謀長を通じ聞かされた
元特攻隊員・角田和男氏(終戦時中尉。2013年歿)

しかし、大西の意図は叶わず、日本軍はフィリピンでも惨敗し、連合軍はさらに日本の国土である硫黄島、沖縄に攻め入って来た。特攻も、「敵空母の飛行甲板を破壊する」という当初の目的を超え、恒常的な戦法としてさらに拡大していった。
 
大西はその後、軍令部次長に転じ、最後まで徹底抗戦を激越に主張し続けたが、連合国側から発せられた和平を促すポツダム宣言を日本政府が受諾し、昭和20年8月15日、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。

特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと介錯を断り、自らの血の海のなかで半日以上も悶えた上での壮絶な最期だった。特攻作戦を主導した将官で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
 
特攻作戦を通じての大西の側近・門司副官は、徹底抗戦を叫び続けた大西の「真意」が、

「味方の戦意を奮い立たせると同時に、アメリカに対しては特攻隊を盾にあくまで戦う姿勢を見せ続けることで日本本土決戦を思いとどまらせ、和平を促すためのメッセージ」
 
であったと語っていて、そのことは、大西の遺書からも読み取れる。

〈特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せ んとす/次に一般青壮年に告ぐ/我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ/聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり/隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ/諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世界人類の和平の為/最善を盡せよ/海軍中将大西瀧治郎〉
 
前段で、特攻で戦死させた将兵に陳謝し、死をもってその英霊と遺族への償いをすると述べている。そして中段、後段では、つい前日まで抗戦を叫んでいたのと同一人物とは思えない冷静な筆致で、若い世代に後事を託し、軽挙を戒め、世界平和を願う言葉が綴られているのだ。
 
もともと、大西は日米開戦にも、真珠湾攻撃にも反対だった。そんな大西が、戦局の大詰めを迎えた段階で、最初の特攻隊を送り出す役回りとなった。そして、徹底抗戦の暴将を演じきり、遺書にささやかな本心を遺して、一人黙って責任をとった。

特攻作戦そのものは大西のアイディアではない。フィリピンでの特攻が始まったときにはすでに、各種特攻兵器が開発され、特攻専門部隊の編成も始まっていた。だから、

「大西は、特攻の引き金を引いたにすぎず、『特攻の生みの親』とは言えない。せいぜい『産婆役』というのが適当ではないか」
 
という意見もある。

筋の通った正論であろう。だがそれでも、門司は、大西中将を「神風特攻隊の生みの親」と呼ぶことに躊躇いはないと言う。

元第一航空艦隊副官・門司親徳氏(終戦時主計少佐。2008年歿)

〈生んだ子とともに死ぬ覚悟のない者に、親たる者の資格はないと思うからであります。〉
 
昭和と平成、年号は違えど、奇しくも大西と同じ「20年8月16日」に息を引きとった門司親徳が、生前、最後に書いた遺稿の1行である。