いかにして「特攻」は始まったのか? すべてを見ていた副官の証言

74年前の今日、最初の特攻隊、突入す
神立 尚紀 プロフィール

たった6機で、護衛空母1隻沈没、3隻中・小破

特攻隊が最初に敵艦隊への突入に成功したのは、栗田艦隊がレイテ湾に突入する予定の当日、10月25日のことだった。

10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進。21日以来、これが4度めの出撃だった
 

 
この日の朝、栗田艦隊はトーマス・スプレイグ少将の率いる第77・4任務部隊と呼ばれる護衛空母群三隊のうちの一つ、護衛空母6隻、駆逐艦7隻からなる「タフィ・3」とサマール島沖で遭遇、一方的な砲撃戦を展開したが、米側は護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦3隻を失ったのみだった。

「タフィ・3」の救援要請を受けて、スプレイグ少将は、護衛空母4隻、駆逐艦7隻の「タフィ・1」を率いてサマール島方面に向かおうとした。その矢先の午前7時40分、突如上空に零戦が現れた。
 
250キロ爆弾を抱いた零戦は、機銃を発射しながら護衛空母「サンティ」の飛行甲板左舷前部に体当りを敢行した。「スワニー」を狙ったもう1機の零戦、「ペトロフ・ベイ」を狙った零戦は、いずれも対空砲火で撃墜された、と米軍戦史にある。
 
さらにもう1機の零戦が、高度2500メートルの雲のなかで突入の機会を狙っていた。この零戦は対空砲火を冒して「スワニー」後部で横転すると、飛行甲板後部エレベーター付近に逆落としに突っ込んだ。

「サンティ」「スワニー」は、この損害で当分の間、使用不能になったが、これこそが、神風特攻隊による初の戦果であった。

「タフィ・1」に突入したのは、いずれもダバオ基地を発進した菊水隊と、朝日隊である。
 
続いて10時45分、マバラカット東飛行場を発進した敷島隊が、栗田艦隊の追撃から逃れたばかりの「タフィ・3」を発見、攻撃する。爆装機5機と直掩機4機、あわせて9機の零戦は、レーダーのおよばない超低空から、敵艦隊に突入した。

米軍側記録によると、零戦は、海面スレスレから駆逐艦の輪形陣を突破すると、高度1500~1800メートルまで急上昇し、ほぼ同時に逆落としに突入した。
 
2機は「ホワイト・プレーンズ」に向かったが、そのうち1機は対空砲火に被弾し、目標を「セント・ロー」に変えたと見るや、その飛行甲板に突入した。「セント・ロー」は、大爆発を起こし、11時23分、沈没した。

敷島隊の特攻機が命中し、炎上する米護衛空母「セント・ロー」

「ホワイト・プレーンズ」に向かった1機は、対空砲火の直撃を受け、左舷艦尾すぐ近くの海面に突入。爆弾が爆発し、若干の損傷を与えた。

もう1機は、「キトカン・ベイ」の頭上を交差すると急上昇し、反転するや機銃を撃ちながら突っ込んだ。左舷外側通路に激突し、機体は近くの海に落ちたが、外れた爆弾は左舷側で大爆発し、火災を発生させた。ほかの3機は、「カリニン・ベイ」に突入しようとした。1機は飛行甲板左舷側に命中、機体はバラバラとなり火災を生じさせた。もう1機も左舷中央部に突入、さらにもう1機は同艦の左舷の海に墜落した。
 
体当り機を6機と米側が判断したのは、対空砲火で撃墜された直掩隊の1機が含まれているからと思われる。
 
米側からすれば、たった6機の零戦のために、護衛空母1隻が沈没、3隻が中、小破するという損害を出したのは、驚愕すべき事実であった。

「タフィ・3」はこの直後にも、セブ基地を発進した大和隊と思われる隊による体当り攻撃を受け、「カリニン・ベイ」が2機の突入を受けた。
 
特攻隊員たちの肉体は乗機とともに四散したけれども、この日、のべ10機の爆装零戦の体当り攻撃による戦果は、栗田艦隊による砲撃戦のそれに匹敵するものだった。

すべての犠牲を無駄にした栗田艦隊の反転

ところが、必死の思いで戦う航空部隊、陸上部隊にとっては信じがたいことに、栗田中将はすでにレイテ湾への突入を断念していた。栗田中将は、小澤艦隊が敵機動部隊の攻撃を一手に引き受け、囮の役割を果たしつつあることも、特攻隊による体当り攻撃が戦果を挙げたことも知らなかった。
 
栗田は、12時36分、レイテ湾突入を取りやめ、敵機動部隊との決戦を企図して北上をする旨の電報を打電した。
 
栗田艦隊の反転は「謎の反転」とされ、戦後もさまざまな論議や憶測を呼んでいる。擁護論もあれば、「要は臆病風に吹かれた」とか、「反転ではない、逃げたのだ」と断ずる意見もある。どちらの捉え方にも一理あるだろう。

だが、一つ確かなのは、この反転によって、特攻隊をはじめとする基地航空部隊の多大な努力、小澤艦隊の4隻の空母の喪失など、栗田艦隊のレイテ湾突入のために積み重ねてきたさまざまな犠牲が水泡に帰したということである。あとに残ったのは、作戦が失敗に終わり、日本海軍が今後、艦隊決戦を挑むだけの戦力を失ったという惨めな事実だけだった。
 
栗田中将は戦後の昭和21(1946)年、米「ライフ」誌の写真家で、マッカーサーのレイテ湾上陸のスクープを取材したカール・マイダンスのインタビューに、そのときは作戦が成功しつつあることを知らず、2つの米艦隊の挟み撃ちにあうと思い込んでいたと明かしたうえで、

「退却が、いまとなっては悔やまれます」
 
と答えている。
 
栗田艦隊のレイテ湾突入取りやめは、基地の航空隊や司令部に、大きな失望感を抱かせた。門司副官は、

「やり場のない、いらいらした気にさせられた」
 
と回想するが、これは、多くの将兵に共通する感情だった。