いかにして「特攻」は始まったのか? すべてを見ていた副官の証言

74年前の今日、最初の特攻隊、突入す
神立 尚紀 プロフィール

大西中将が特攻隊員たちとかわした別杯

特攻隊は、すぐに飛行場で出撃待機に入った。関大尉以下、敷島隊、大和隊の7名はマバラカット西。朝日隊、山櫻隊の6名はマバラカット東。
 
大西は、彼らの出撃を見送るつもりで二〇一空本部で待つが、この日は、索敵機が敵艦隊を発見したものの、距離が遠すぎて出撃の機会はなかった。

 

 
午後3時過ぎ、大西中将はマニラに帰ることになり、その前にみんなに会っていこうと、マバラカット西飛行場の滑走路のはずれ、うすい夕日が差すバンバン川の河原に待機中の、関大尉以下、敷島隊と大和隊の7名の搭乗員を訪ねた。搭乗員たちは車座になって座っていたが、大西中将の姿を認めるといっせいに立ち上がって敬礼した。大西は、搭乗員を座らせると自分も草の上に腰をおろした。
 
側で見ると、搭乗員たちの子供っぽさがなおさらのように感じられる。彼らは、大西中将に話しかけられると、はにかんだり照れたりしていた。この少年たちはもうすぐ死ぬのだ、と門司は思った。
 
2、30分、雑談を交わしたのち、

「では、わしは帰る」
 
と大西は腰を上げたが、ふと門司が肩から下げている水筒に目をとめると、

「副官、水は入っているか」
 
と訊ねた。

門司は水筒を肩から外した。関大尉を右端に、7人の搭乗員が並んだ。門司は、白い湯飲み茶碗を関大尉にわたした。このとき、稲垣浩邦報道班員が撮影した別杯のシーンは、翌日以降の出撃シーンの映像と合わせて1日の出来事のように編集され、「日本ニュース」232号として、11月9日、内地の映画館で上映された。

「別杯を終えて長官と車に乗ったのは、もう4時頃でした。夕暮れの道をマニラまで走る2時間あまりの間、大西中将はひと言も口をきかれませんでした」

昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。バンバン川の河原で敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿は大西中将。向かって左から、門司主計大尉、玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹

門司が筆者に語ったところによると、大西は道中ずっと、むっつりと押し黙って、不機嫌な表情だったという。暗くなってマニラの司令部に着いたとき、大西は、

「順序が逆だったなあ」
 
という意味のことをつぶやいた。

指揮官に想定されていたのは別の大尉だった

「順序が逆」とはどういうことか。大西としても、「死」を命じることが命令の域を超えていることは承知している。「戦死」というのはあくまで任務遂行上の「結果」であって、あらかじめ決められたものではない。これは海軍士官の常識であった。
 
だからこそ、大西の考えでは、あくまで特攻隊編成は志願によるものでなければならず、「指揮官先頭」をモットーにしてきた海軍の伝統からいっても、指揮官がまず手を挙げて、「俺についてこい」と部下たちの志願を募る形でなければならなかった。
 
では大西は、誰に白羽の矢を立てていたのかというと、それは、指宿正信大尉であった。
 
指宿は真珠湾攻撃に参加、その後、機動部隊や基地航空隊を渡り歩き、広大な戦域で縦横無尽に活躍したベテランの指揮官で、その名は海軍航空隊でつとに知られている。
 
そんな指宿が手を挙げてくれれば、体当り攻撃が必要なことを隊員の誰もが納得するだろう。後に続く者への波及効果もはかり知れない。ぜひ、自分から手を挙げてもらいたい。――だが結局、指宿は志願しなかった。
 
もちろん、それには理由がある。飛行隊長といえば実際の出撃にあたって空中で指揮をとる最高のポストであり、隊長が戦死すれば隊をまとめる者がいなくなり、部下たちを路頭に迷わすことになる。門司は、

「玉井さんという人は手近な人を依怙贔屓するほうだったから、お前はやめとけ、と言ったのかもしれない」
 
と推察する。だが、大西は、この戦争の先をあまり長いものとは考えず、むしろこの一戦で帰趨を決めるべきだと考えている。歴戦の飛行隊長だからこそ、できれば、ここで指宿に手を挙げてほしかったのだ。二〇一空のもう一人の飛行隊長、戦闘第三一一飛行隊の横山岳夫大尉は水上機出身ということもあり、はじめから蚊帳の外に置かれている。
 
代わって指揮官に指名されたのが、艦上爆撃機から戦闘機に転科したばかりで実戦経験のない、しかも新婚の関大尉である。特攻隊の編成を二〇一空に一任した大西は、これに異論をはさめない。

門司は、

「車中での大西中将の沈黙には、そのことに対する慙愧の念もあったのかもしれません」
 
と回想している。門司が戦後、猪口参謀から聞いたところによると、大西は、

「どうして指宿が行かないんだ」
 
と、猪口に漏らしたという。指宿が、

「私が指揮官で行きます。隊員は私が募ります」
 
と言ってくれれば、大西としては満点だったのだ。なお、指宿大尉は横須賀海軍航空隊飛行隊長(少佐)として終戦を迎え、戦後は海上自衛隊を経て航空自衛隊に入ったが、昭和32年(1957)1月9日、ノースアメリカンF86Fセイバー戦闘機で訓練中、僚機に空中接触され、航空自衛隊ジェットパイロットの殉職第1号になった。

ぼくは国のためではなく、愛妻のために行くんだ

20日午後、同盟通信特派員・小野田政は、この日の出撃が中止になって二〇一空本部に戻っていた関大尉をバンバン川の河原に連れ出してインタビューを試みた。

「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番(五百キロ爆弾)を命中させる自信がある」
 
という関の言葉を、小野田は戦後、『神風特攻隊回想の記』に残している。関は、言葉を続けた。

「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍隠語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあれば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」
 
関の様子には、何とかして自分の「死」に意味を見出そうとする煩悶が感じられた。士官たるもの、上官や部下を前にこんなことはなかなか言えないのだろうが、二〇一空で唯一の民間人である小野田には心を許し、思いの丈をぶつけたかったのかもしれない。

神風特攻隊が最初に出撃したのは、10月21日のことである。夕方4時、索敵機がレイテ沖に敵機動部隊を発見。マバラカットから敷島隊、朝日隊、セブ基地から大和隊が出撃するも、悪天候で敵艦隊を見つけることができず、多くはルソン島南端近くのレガスピー基地に不時着。だが、大和隊の久納好孚中尉はそのまま行方不明になり、特攻隊最初の戦死者になった。レガスピーに不時着した関大尉以下の搭乗員は、翌22日早朝、マバラカット西飛行場に帰ってきた。

10月21日、マバラカット西飛行場で、出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿向かって左端が関大尉。落下傘バンドを装着した直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊

関大尉は、玉井副長に報告すると、

「申し訳ありません」
 
と涙を流したという。
 
10月22日以後も、敵機動部隊発見の報告が入るたびに特攻隊は出撃したが、分厚い雲に遮られ、敵艦を発見できずに帰投することを繰り返した。23日には大和隊の佐藤馨上飛曹が行方不明となり、2人めの特攻戦死者となる。その間、新たに「若桜隊」「菊水隊」と名付けられた特攻隊が編成されている。