いかにして「特攻」は始まったのか? すべてを見ていた副官の証言

74年前の今日、最初の特攻隊、突入す
神立 尚紀 プロフィール

少ない航空兵力で敵空母に打撃を与える唯一の作戦

大西中将がマニラに渡ったのは、17日夕刻のことである。その日のうちに、マニラにいる幕僚や司令部要員は大西中将に伺候し、その晩、寺岡中将と大西中将との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の一航艦長官就任は10月20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差支えない。
 
寺岡中将の日誌によると、この引継ぎの際に、大西との間で、

「必死必中の体当り攻撃戦法以外には国を救う方法はない」
 
との結論に達し、その編成を寺岡は大西に一任することに決まったのだという。

 

 
10月19日、大西は上部組織である南西方面艦隊司令部に三川軍一中将を訪ね、それが終わると司令部に戻り、参謀長小田原俊彦大佐以下の幕僚と打ち合わせを行った。
 
この日の夕刻、聯合艦隊司令部が「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に令した。
 
作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下の第一遊撃部隊(「栗田艦隊」)が、レイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅する。西村祥治中将率いる戦艦「扶桑」「山城」を主力とする別働隊と、重巡洋艦「那智」「足柄」を主力とする志摩清英中将率いる第二遊撃部隊が、栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間、空母4隻を基幹とする小澤治三郎中将率いる機動部隊が、囮となって敵機動部隊を北方に誘い出す。一航艦を主力とする基地航空部隊は、全力をもって敵艦隊に痛撃を与える。
 
作戦の実施は敵情により変化するが、おおざっぱに言えば以上のようなものであり、日本海軍の残存兵力のほとんどを注ぎ込む、まさに最後の決戦とも呼べる乾坤一擲の大作戦だった。

――にもかかわらず、一航艦にはすでに使用可能な飛行機は40機足らずしか残されていない。味方艦隊のレイテ湾突入を支援するには、敵空母の飛行甲板を破壊し、少なくとも一週間程度、使用不能にしなければならないが、この少ない兵力をもって、通常の攻撃手段で敵空母に打撃を与えることは到底不可能であった。
 
大西中将は日本を発つ前、軍令部総長・及川古志郎大将に、「必要とあらば航空機による体当り攻撃をかける」ことを上申し、及川総長からは、「ただし、命令ではやらないように」と条件がついたと言われる。

すでに海軍では、軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の主導で人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」ほか、体当り攻撃兵器の開発が始まっていて、特攻専門部隊の編成も進められている。「体当り攻撃」自体は、海軍の既定路線であった。

ただし、「ダバオ水鳥事件」「セブ事件」がなく、台湾沖航空戦で、当初報告された通り敵機動部隊を殲滅できていれば、少なくとも大西による「捷一号作戦」での特攻は必要なかったとはいえる。

大西中将が、指揮下に入る二〇一空、七六一空の司令、飛行長の参集を命じたのは、10月19日の朝である。そして、午後になっても二〇一空の山本司令と中島飛行長が来ないのに業を煮やした大西は、自ら二〇一空のいるマバラカット基地に向かった。

「決死隊を作りに行くのだ」
 
――寺岡中将の日誌に見られるとおり、大西はこのときすでに、自分の手で、組織としての「体当り攻撃隊」を編成することを心に決めていた。門司がふと聞いたつぶやきは、その後十ヵ月近くにわたって続く特攻作戦の、まさに始まりを告げる静かな号砲だった。