1944年10月25日、米護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に突入しようとする敷島隊の特攻機

いかにして「特攻」は始まったのか? すべてを見ていた副官の証言

74年前の今日、最初の特攻隊、突入す
74年前の今日、1944年10月25日、関行男大尉率いる24名の最初の特攻隊員が、フィリピンのマバラカット、ダバオ両基地から出撃、サマール島沖を航行中の米艦隊に突入した。なぜ特攻作戦が採用され、なぜ彼らが選ばれたのか。「特攻の生みの親」と言われた大西瀧治郎中将の副官だった門司親徳主計大尉は、作戦命令の発動から出撃まですべてを目撃していた。歴史の目撃者が語った「特攻の真実」。
 

「決死隊を作りにいくのだ」

大西瀧治郎中将と、副官・門司親徳主計大尉(戦後丸三証券社長)を乗せた大型乗用車は、フィリピン・ルソン島のマニラから、約80キロ北、クラーク・フィールドにあるマバラカット基地に向けひた走っていた。

米軍がレイテ湾に上陸し、フィリピンでの決戦が間近に迫った昭和19(1944)年10月19日のことである。

大西は、翌20日付で第一航空艦隊(一航艦)司令長官として着任することになっていた。上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう、屋根に木の葉を挿した擬装網を施した車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外に出るとルソン島中部の平野を北上する。

門司は、大西と並んで後席に座っている。運転席では、司令部の運転員が黙々と運転している。

会話はまったくない。門司は、副官というのは空気のような存在であるべきだと思っていた。必要な仕事をこなせば、あとは長官の邪魔にならない程度に控えめにしているのがちょうどいい。だから、長官が口をきくか、用があるとき以外は黙っている。そうすると、長官も、副官の存在が気にならなくなるようであった。

大西は、マニラを出てからずっと黙っている。門司もあえて話しかけることはせず、窓の外を眺めている。

時々、左側に鉄道線路が見える。左右はずっと田んぼで、黄金色の稲穂が続くが、もう稲刈りの時期らしく、部分的に刈り取られている。サンフェルナンドの町の大きな教会が見えたときには、もうだいぶ陽が傾いていた。右前方にアラヤット山という擂鉢を伏せたような形の山が見える。その向こう側の空に、墨色の雨雲が見えた。

門司が、「暗い陰鬱な雲だ。あの下は雨かな」と思って見ていると、不意に、大西が低い声で何かをつぶやいだ。

門司は、始めはよく聞きとれず、「は?」とちょっと顔を右に向け、耳を澄ませた。大西は、今度は門司にもはっきりと聞きとれる声で、

「決死隊を作りに行くのだ」

と言った。門司は、ただ、そうか、と思い黙っていた。大西の言う「決死隊」が体当り攻撃隊(=特攻隊)を意味するものだとは、そのときの門司には知る由もない。

大西瀧治郎中将(右)と、門司親徳副官。昭和20年5月、台湾にて

門司は大正6(1917)年、東京生まれ。東京帝国大学経済学部を卒業後、日本興業銀行に入行、海軍の短期現役主計科士官となり、これまで、空母「瑞鶴」庶務主任として真珠湾作戦に参加したのを皮切りに、陸戦隊主計長としてニューギニア・ブナの連合軍拠点への敵前上陸で激戦を経験。さらに第五五一海軍航空隊(五五一空)主計長として、インド洋から中部太平洋の広い範囲で戦ってきた。

「短期現役」で、2年の約束で海軍に入ったのが、戦争が激しくなり、除隊どころではなくなっている。自らが経験してきたこれまでの戦いの流れを見ても、尋常な手段でアメリカ軍と渡り合うことはできないのは実感していたから、「決死隊」という言葉の響きが、特別なものではなくむしろ当然の響きをもって、門司の胸にストンとおさまった。
 
大西は、それ以上ひと言も言葉を発せず、また沈黙が続いた。街道はダウの町に入り、鉄道線路の近くを通ってさらに北上する。マニラを発って2時間。町を出て草原を抜けると、めざすマバラカットまではもうすぐである。

誤報、誤認を連発し、航空部隊が大打撃を受ける

サイパン、テニアンが米軍の手に落ちたいま、日本政府が策定した「絶対国防圏」はすでに崩壊している。米軍が次に攻めてくるのは、大方フィリピンと予想された。
 
昭和19年9月9日から10日にかけ、第一航空艦隊が司令部を置いていたミンダナオ島ダバオは、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。9月10日朝、見張所からの〈敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう〉との報告に、浮き足立った司令部は玉砕戦を覚悟して通信設備を破壊、重要書類を焼却したが、10日夕方になって、敵上陸はまったくの誤報であることがわかった。見張員が、海岸の白波を敵上陸部隊と見間違えたのだった。

これは、平氏の軍勢が、水鳥が羽ばたく音を源氏の襲来と間違え自ら潰走した「富士川の戦い」に似ていることから「ダバオ水鳥事件」とよばれる。
 
9月12日、こんどはセブ基地が敵機動部隊艦上機の急襲を受けた。敵上陸の誤報を受け、ダバオの敵攻略部隊に備えてセブに集められたままになっていた第二〇一海軍航空隊(二〇一空)零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。「セブ事件」である。フィリピン決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして戦わずして戦力を失った。
 
この一連の不祥事で一航艦司令部はマニラに後退することになり、司令長官・寺岡謹平中将は更迭され、後任の司令長官として海軍航空きっての実力者である大西中将が、いわば切り札として親補(天皇が任命する)されたのだ。
 
大西が中継地の台湾・高雄基地へ到着し、門司が迎えに出たのが10月11日。その翌日、10月12日から、台湾沖に現れた敵機動部隊を、航空兵力の総力をもって攻撃する「台湾沖航空戦」がはじまった。10月16日まで5日間におよんだ戦いで、日本側は、敵空母十隻を撃沈、八隻を撃破したと報告し、大本営はそれをさらに脚色した「大戦果」を発表する。

ところが、16日になって、索敵機が、すでに撃滅したはずの機動部隊を発見。祝勝ムードに浮かれていた海軍は、大きな衝撃を受けた。戦果判定の多くは、薄暮から夜間の攻撃で、味方機が自爆炎上するのを敵艦の火災と誤認したものと考えられた。
 
この一連の戦闘で、日本側が400機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は1隻もなく、8隻に損傷を与えただけだった。
 
大本営発表とは裏腹に、日本海軍航空部隊が、台湾沖航空戦で受けた打撃はとてつもなく大きかった。フィリピンの航空兵力は、18日現在の可動機数が、一航艦の35~40機、陸軍第四航空軍の約70機しかない。
 
そんな状況で、昭和19年10月17日、連合軍攻略部隊の先陣は、レイテ湾の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始した。いよいよ、敵の本格的進攻が始まったのだ。