2018.10.25

刀剣女子は、現代によみがえった「巫女」である

日本刀への正しい接し方とは?
加来 耕三 プロフィール

のちの奈良時代に入ると、出征する将軍や出立する遣唐使に対して、天皇から「刀」を賜わる節刀――〝しるしのたち〟とも呼ばれた――が登場するが、この起源は、中国の「節旄(せつぼう)」(天子から将軍や使節に、任命のしるしとして与えられた旗、ヤクの毛=旄牛(ぼうぎゅう)で飾った旗)とともに、「鉞(えつ)」(大斧)を征戦に臨む将軍に授けて、その権威を高めようとしたものであった。

――それがいつから、日本では「刀」となったのか。

 

わが国で天皇が節刀を授与する儀式を最初におこなったのは、和銅2(709)年3月6日、巨勢朝臣麻呂(こせのあそんまろ)を陸奥鎮東(ちんとう)将軍に、佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を征越後蝦夷(えみし)将軍に任じたおりで、軍令とともに授けた、と『続日本紀(しょくにほんぎ)』は述べている。

この節刀は、あたえられた任務を無事に完遂することができたおりには、授けた天皇に返上する慣わしとなっていた。もし、節刀を返さなければ、笞(むち)で打たれたり、拘留されることになっていた(『養老律令(ようろうりつりょう)』)。

筆者はこの『養老律令』が誕生した頃こそ、今日につながる日本の骨格が形成された時期だ、と考えてきた。

刀を振る加来耕三氏

美しさをめでるのが、正しい接し方

ついでながら、武士が台頭し、朝廷の力が弱くなると、節刀は必然的に姿を消した。

日本ではじめて天下統一を成した豊臣秀吉が、天正18(1590)年の小田原征伐に際して、ときの後陽成(ごようぜい)天皇(第107代)から節刀を賜わった、と『徳川実記』にはあるが、その返上が定かではなかった。単なる餞(はなむけ)であったようにも思われる。

二度にわたる朝鮮出兵しかり。否、はるか昔の北条時宗(ときむね)の蒙古襲来のおりであっても、節刀のセレモニーは行われていなかった。いずれもときの帝(みかど)は、戦に反対であったのだろうか。

天慶2(939)年の平将門の乱のおり、朱雀(すざく)天皇(第61代)が平貞盛(さだもり)に節刀を与えて以来、絶えて久しく、節刀が日本史に復活するのは、意外にも幕末になってからのこと。

幕府の力が欧米列強の軍事力を前に、揺らぎはじめたとき、孝明天皇(第121代)が石清水(いわしみず)八幡宮へ攘夷の祈願に行幸することとなった。

その供奉(ぐぶ)を命じられた攘夷の実行責任者=征夷大将軍=十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に、帝が節刀を授けることになったのだが、〝征夷〟に自信のない将軍家茂は、病いと称して供奉せず、代理の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(のちの15代将軍)にいたっては、にわかの病いを口実に、召命そのものを辞退して逃げている。

節刀は逃げた武士を追うように、明治維新のおり、鳥羽・伏見の戦いにおいて、明治天皇(第122代)から仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)親王に、錦旗(きんき)とともに授けられた。慶応4(1868)年正月4日のことであり、親王は同月27日に目的を達したとして、節刀を返還している。

つづいて2月15日、東征大総督に任ぜられた有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は、同じく錦旗とともに節刀をたまわり、江戸へ進軍。同年11月2日に帰京(ここでは東京のこと)し、参内して、錦旗とともに節刀を奉還した。これが節刀の、最後となった。

筆者は節刀のみならず、宮中で皇子が生まれたおり、帝から授けられる「御剣(みはかし)」や神社への奉納も含め、実戦ではなく数々の伝説にいろどられた日本刀こそが、この刀の本流であったと考えてきた。換言すれば、護身のためのものといえる。

剣術もそもそもは、護身の技術であった。

いにしえの日本刀を神前にかざしながら、無事を祈ったのが巫女であるならば、刀剣美術館に足しげく通う現代の「刀剣女子」は、その再来といってさしつかえあるまい。

日本刀は実用にもちいるものではなく、その刀身のあやしいまでの美しさに思いをはせながら、鑑賞し、そこに幻想の世界を思い浮かべることこそが、正しい接し方といえるだろう。

いかがであろうか?

刀剣女子必読の『刀の日本史』!

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