2018.10.19
# ドラマ

ドラマ『昭和元禄落語心中』岡田将生のスゴさを“落語的”に考える

そして、落語の「せつなさ」を思う
堀井 憲一郎 プロフィール

「この芸も、いつか消えてしまう」

落語が「せつない」のは、芸が個人にしか宿らないところにある。

そのせつなさは、つまり芸人のせつなさである。

ドラマのなかで八雲も言っていた。その人が死ねば、その芸は消える。どうしようもない。落語を聞き続けていると、ああ、この師匠の芸もやがて消えてなくなるのだな、と覚悟を持つことになる。また、歳を取って落語を聞いていると、ああ、この子が立派な芸を見せる姿を、自分は生きて見ることはないんじゃないかな、と悟らされることになる。

「個」ということがあまり強く主張されなかった江戸や明治の昔にも、芸の世界では「個」がすべてだった。しきたりや仕立ては、個を認めていなかったが(たとえば見習いから前座の修業時代はまったく人格を認めてもらえない)、芸は個のものだった。それが見たくて、相撲と芝居と寄席に文化文政のころの江戸っ子は熱狂していた。

 

でもそれはわずかの、その人の生きているあいだのもので(しかも芸の絶頂は短い)、必ず消える。消えたら再現できない。

そういう脆(もろ)さと儚(はかな)さによって成り立っているのが「生身の芸」である。楽しくて、切ない。

音源が残っていれば、それはその芸を偲ぶよすがにはなるが、芸そのものが持つインパクトは伝わらない。名人と言われた八代桂文楽の音源を、いま、すっと聞いても、まず彼の凄みは伝わらない。

古今亭志ん生がすっと聞くだけで、前にいるように感じるのに比べ、文楽はその“様子”までも芸のうちだったからだろう、音だけ聞いてもあまり伝わってこない。聞いてるほうが必死で昭和の寄席の空気を想像しないと、芯の姿に迫れない。志ん生と文楽の不思議な違いである。

ちなみに「昭和元禄落語心中」にべつだんモデルはないとおもうが、八雲と助六の芸の差異は、文楽と志ん生の違いに少し近いようにおもう。また、八雲の「嫌みな感じ」はちょっと三遊亭圓生ぽかったりもする。べつだんモデルではないだろう。いろんな細部に過去の芸人の記憶が組み込まれているだけだとおもう。見ていて楽しい。

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芸人を見ていてせつなくなるのは、それは「たちきり」や「鰍沢」や「死神」などの大ネタのときよりも、もっとふつうの滑稽噺、たとえば「道具屋」や「道灌」や「時そば」を聞いてるときに心迫ってくるものである。そのへんが落語の妙味だ。

大ネタはストーリーだけで客を引っ張っていけるが、滑稽噺は落語家の力量そのものが出てくるからで、名人かどうかは、だいたい小品の仕上がりで決まってくる。そのへんもおいおいと描かれていくだろう。女と落語についても、また描かれていくとおもうので、そのへんの話はまたあらためて。

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