見習うべき「ハーフ」は大坂なおみなのか
今回、大坂なおみについての話題をテレビでもインターネット上でも毎日のように目にしたが、私が引っかかったのは、「大坂なおみをどう思うか?」という質問だ。
彼女に関する記事のなかには、「彼女が試合の日の朝に食べたおにぎりはサーモンと梅」「日本でやりたいことは?」というようなテニス選手としての語られ方とは結びつかない内容もいくつかあった。
記者からの「古い日本人像を見直すきっかけになると言われていますが、アイデンティティについてどう思いますか?」という質問に対しての「私は私」というやりとりもそうだ。
相手の反応に関わらずどんどん繰り出される質問は、多角的に質問を向けながらまるで「正解」を欲しがっているようにも見えた。
「どう思う?」という聞き方は、おそらくマイノリティ当事者なら経験のある人もいるだろう。私も一連の記事やニュースを調べながら、まるでその言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。

「日本人よりも日本人らしくて素晴らしい!」「世の中には色んなハーフがいますが、こういうハーフが増えてほしいですね」というコメントは、「本来ならばこれが普通だ」という意識に基づいて書かれている。
冒頭に書いた「外国人の血に頼るしかないのか」という見出しは、そう考えるとあまりにも露骨で、社会の「普通」や「正しさ」からはみ出してしまうことを不安がっているようにも見えた。
不安要素を取り除きたい、という気持ちは誰にでもあるだろう。
だが、その不安を取り除くためには、これまで長年放ってきた社会をアップデートすることから始めなければならない。
たしかに、これまでの社会が作り出した「普通」や「正しさ」によって安心できることも多くあったはずだ。しかしその「普通」を維持するために、言葉や振る舞いを迫られる暮らしを「普通の暮らし」として生きる人がいることを、私たちは自覚する必要がある。
それは、これまでの社会を生きた私たちの姿そのものでもあるからだ。
大坂なおみにまつわる記事は、社会にただよう「普通」という空気のあいまいさと息苦しさをあぶりだした。
それがいたるところで踏み絵のように散らばっているこの社会は、マイノリティにとっては生きるだけで息苦しく、マジョリティにとっても生きづらい社会と言えるだろう。
そこで生き抜く術を身に付けるのではなく、生き抜く必要のない社会がほしい。そう思って、大学生のときに今の職場で外国にルーツを持つ子どもに関わる活動を始めた。