使い分ける言葉と顔の鎧
そして子どもの頃、私は自分の通った学校や生まれ育った地域が被差別部落であることをきちんと理解できていなかった。
人権学習では部落問題に焦点を当てた授業もあったが、どの授業もそこから地続きになる社会と自分の接点を見出すための人権学習だった。小学校から高校までの12年間は、今の私の根底に流れる人権感覚の源でもある。
2002年に同和対策事業特別措置法が失効したあとも熱心に人権教育に取り組む学校だった母校は、人権学習の外部講師には必ず地域の住民をゲストスピーカーとして招いた。
小学校・中学校ともに1クラスしかない小さな学校だったので「あ、田中くんのお母さん!」「今日はおっちゃんが先生?」など、普段からよく見かける人が教壇に立っている。
地域に暮らす人のライフストーリーを改めて聞く授業スタイルは、綺麗なポスターに印刷されている「相手の気持ちを考えよう、住みよいまちにしよう!」という紋切り型の標語を簡単に吹き飛ばした。
思えば私が社会というものに恐怖を抱き始めたのは、この頃からかもしれない。
ルールや規範によって存在そのものを亡きものにしてしまうという現実が、そこにいる人々の言葉を通して蔦となり私に巻きついた。それはかわいそうなストーリーや感動的な物語ばかりではなく、小さな生存戦略であふれていた。
かつて「自分の親にインタビューをする」という学習のなかで「それが私の運命だから」と答えた母もそうだ。母の人生は、マイノリティとして社会で生きる覚悟の強さと、圧倒的な立場の弱さが見え隠れしていた。
「なぜこんなところにいるのか」という眼差しや言葉を受けるたびにマイノリティの日常は脅かされる。その度に、母はまるで「善良な市民」であることを証明するかのように笑顔で質問に答えていた。
私に対して「外国人の娘でごめんね、私がママじゃなかったら良かったのにね」と謝る姿とはまるで別人の、凛々しくて毅然とした姿を見るたびに、私の心臓は思い切りぎゅっと握られ小さくなった。