炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

わかりやすさの誘惑、ありがちな構図
佐伯 順子 プロフィール

教養番組の新機軸にむけて

従来の定型とは逆に、小柄な女の子がゲストを一喝するバラエティ系の教養番組は、“女子供”が大人の無知を叱るという斬新さが、従来の“おバカだがかわいい女子”のイメージを転換する意義を有して成功したと思われる。

中高年の男性講師の話を若い女子生徒が聴くという構図は、いまだ教養番組にみられるものの、映画やテレビドラマ、小説においては、古くは『青い山脈』『二十四の瞳』、比較的新しい例では、『ごくせん』『女王の教室』など、“女性教師もの”はむしろ定番のひとつであるので、実際の教養番組や科学番組も、同じ発想で作れば視聴者にも新鮮で注目してもらえるのではないか。

 

教養番組、特に科学番組におけるジェンダー配置にてらせば、小保方晴子氏のSTAP細胞の記者会見は、理系女子の若手研究者が主役となり、中年男性研究者が補助的な位置を占めるという意味で、理系研究への女性の進出をメディアで伝える意味でも、科学的な要素を含むテレビ番組に女性が主役として登場するという意味でも画期的な意義をもつはずであった。

しかし、肝心の発見内容に疑問が提示されたことで、これまでの教養番組のジェンダー配置を相対化する意義が中途半端に終わってしまったことは、かえって、“やはり女性は外見のかわいらしさだけなのか”という偏見を助長する弊害が懸念された。

真の研究実績が伴っていたのであれば、若手女性理系研究者のメディア露出は、正しい意味で、理系への女性の参画や活躍を促すエンパワメントにつながったはずである。

実態として明確な業績をあげる理系女性が増えれば、科学番組の聴き手に“かわいい女子”を起用するという刷り込みも徐々に払拭され、教える側の女性が増えることが期待できる。

“リケジョ”がまだ実態として少数派であるだけに、科学番組において“教える女性/学ぶ男子”の構図を定着させるには時間がかかるかもしれないが、少なくとも、固定した性別役割、過剰な性的要素を教養的番組に持ち込むことを“当たり前”とする感覚を疑問視する観点は、視聴者も番組の作り手にも必要である。

それは、現実社会における男女共同参画の促進にもつながるはずである。