98歳認知症おばあちゃんの死が教えてくれた「生産性至上主義」の愚

文化を捨てて孤独を選ぶのか…?
小野 美由紀 プロフィール

我々はどこに行こうとしているのか

『新潮45』8月号に杉田水脈議員が寄稿した「LGBTは生産性がないから支援に税金を割く必要はない」という論旨の文章と、それが引き起こした一連の騒ぎは記憶に新しいが、それらを見た時、私はふと、この時のことを思い出した。

生産性がそんなに大事か。

産むことだけが尊いことか。

ただ生きる、その喜びを知らない人間、ただ生き、喜んでいる人間がこの世界に存在することを喜べない人間、そちらの方が生産性のない人間そのものよりもよほど愚かではないだろうか。

世の中はいち、大事なことがあれば、その裏側はそれ以外の取るに足らない凡百の断片でできていて、それらはふとした時、私たちに他人の生の感触を思い出させてくれはしまいか。

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昔話の主人公が老人・子供・障害者・ニートばかりなのは、物語や文化の継承がそれらの「生産に関与しない」人々によって行われていたからだと聞いたことがある。

父母兄姉が工業・農業に携わる間、彼らは他の共同体からやってきた文化伝承を語り継ぎ、子供を育成し行事の準備をし共同体の維持に務めた。

歌舞伎や能の担い手、共同体同士の文化交流として民間伝承を各地で語り歩くのは、共同体のヒエラルキーから外れた「無縁」のならず者たちだった。

生産システムに組み込まれないものたちが、文化を作り、継承し、共同体同士をつなぐ。

「生産」に携わらないものたちが、生産から外れたところで生まれる人の営みが、どれだけ私たちの暮らしを豊かにしてくれるだろうか。

その豊かさの中では私たちは孤独を感じずにいられるのではないだろうか。

 

生産性を第一に掲げ、生産性のないものを捨てた先にあるのは、文化の衰退と孤独である。

私たちは、文化を捨てて孤独を選ぼうとしているのか。そういう国を目指すのか。

この、とっちらかり、わやくちゃで、みにくくて、超合金でなく、エラーとバグだらけの、やがてしわくちゃになり朽ちてゆく生を、どんな形であれ認めたり、その尊さに驚くことができないのであれば、こんな小国はきっと滅びてもとるに足りないものとして、何万何千年の宇宙史の中では見過ごされるだろう。

いま、我々はどこに行こうとしているのか。