98歳認知症おばあちゃんの死が教えてくれた「生産性至上主義」の愚

文化を捨てて孤独を選ぶのか…?
小野 美由紀 プロフィール

他人の命に生かされている

ある日の朝、スワン靴店のシャッター前を通りかかると、あるものが貼り付けられていた。

「×月○日、母△△が逝去したことをここにお伝えいたします。△△は大正12年にこの地に生まれ、靴店を開業し――」

ワープロ打ちのようながたがたの文字で、おばあちゃんの人生が、A4の紙1枚に凝縮されていた。

オフィスビルが立ち並び灰色のスーツ姿の人々が闊歩するこの街は、20数年前までは町家の並ぶ下町だった。この通りもかつては商店街だったはずだ。

 

私たちが普段、駅までの道を無言で往復するだけのこの場所は、血管のように彼女の生きた痕跡が張り巡らされ、彼女の過ごした何千何万秒の人生の堆積した、彼女の人生の舞台だったのだ。

張り紙で人の生き死にを知らせるような、それを見て多くの人間が彼女の人生に思いを馳せるような共同体だったのだ。

なぜか涙が出た。ここに私の知らない命があったことが。とるに足らない、私の人生においてなんら介入をしない、役にも何にも立たない(むしろ迷惑さえかけられた)誰かの命が、ここに存在していた、というその事実のみに。

「老人なんか、多すぎて財政を圧迫しているんだから、ごっそり死ねばいいのに」
まっつんの年老いた人々に対する大いなる嫌悪は、ときおり僕たちを驚かせた。
「どうせ役に立たないんだからさ」
彼のこうしたもの言いは――この話題に限らず――実際のところ、インターネットかどこかで目にしたことのありそうな、ありがちなフレーズで常に構成されており、それに慣れきってしまった今となっては決して本心からの言葉ではなさそうな気もしたが、しかしなんだか今回に限り、僕はぎくりとした。まるで僕自身が死ねと言われているような気がしたからだ。
――社会にとって、役に立たない人間は死ぬべきだろうか。人間生きてるかぎり、役に立たなくちゃ、だめか。(『メゾン刻の湯』より引用)

他人の命に生かされているようなものだ、と時折思う。

「生産」や「役に立つ」や「有用性」とはまるで無関係の、私の人生の隙間に勝手に忍び込んだ、誰のとも知らぬたわいのない、小さな生に。

エラーやバグのように時々襲い来る、苛だたしくて、面倒臭くて、主軸にもならない小さな出来事に。