天皇三代の素顔を知る側近が、「大正天皇」を最も評価していた理由

いま発掘される生々しい「お濠の内側」

まもなく平成が終わる。その節目の年に、元宮中側近の坊城俊良による手記『宮中五十年』が復刊された。

明治・大正・昭和三代の天皇の人柄に間近で触れた彼の述懐は、自らの意思で「おことば」を発し生前退位を決めた今上天皇の心中、そして今まさに大きく変わろうとしている「天皇制」を考えるための、重要なヒントとなる。

古今の「皇后」から、天皇制の本質に迫った大著『皇后考』でも知られる原武史氏が、本書に込められた坊城の想いを読み解いた。

 

なるべく外出しなかった明治天皇

本書が、著者の坊城俊良と付き合いの深かった元慶應義塾塾長・小泉信三の「序」、新聞伊勢春秋主筆・角田時雄の「あとがき」を付して明徳出版社から刊行されたのは、皇太子明仁と皇太子妃美智子が結婚した翌年の1960(昭和35)年。2016年に講談社学術文庫として再刊された山川三千子『女官(じょかん)』が実業之日本社から刊行されたのと同じ年であった。

どちらも、元宮中側近が知られざる「お濠の内側」の世界を生々しく語った回想録である。

山川三千子は、数え18歳だった1909(明治42)年に皇后宮職の女官となり、大正になっても引き続き明治天皇の皇后だった美子(はるこ、昭憲皇太后)に仕えて14(大正3)年に退官したから、宮中で暮らしたのはわずか5年にすぎない。

一方、坊城俊良は、数え10歳で侍従職出仕として明治天皇に仕え始めた1902(明治35)年から、皇太后宮大夫として仕えた皇太后節子(貞明皇后。節子は「さだこ」と読む。77頁に「貞子」とあるが、「節子」が正しい)が死去する51(昭和26)年までの半世紀にわたって宮中側近をつとめた。

内容もきわめて対照的である。講談社学術文庫版『女官』の「解説」で記したように、山川三千子はいたずらに天皇や皇后を礼賛することはせず、大正天皇や貞明皇后に対する複雑な感情を隠そうとしなかったのに対して、本書で坊城は、直接仕えた明治天皇や大正天皇や皇太后節子はもとより、皇后美子や昭和天皇の弟、秩父宮についても、ひたすら褒め上げることに終始している。

山川と比べて宮中生活が長かったがゆえの自然の振る舞いのように見えなくもないが、このことが直ちに本書の学術的価値を貶めているわけではない。

むしろ、本書の記述からは、2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(以下、「おことば」)で天皇明仁が定義づけた現代の象徴天皇制を見直す上で貴重な証言を見いだすことができる。

まずは、少年期に仕えた明治天皇の振る舞いについて語る文章に注目したい。坊城は、明治天皇が御用邸を一度も利用しなかったことに触れるとともに、天皇が外出を極力控えた理由をこう述べている。

〈それは、御質素・御経済のお考えばかりでなく、お出かけになった場合の、官吏や一般国民の迷惑、大騒ぎさせることの無駄を、気の毒がっておられたのであった。
陸軍の大演習、海軍の観艦式・進水式、または学校などには公務としてお出かけになった。一度大阪の内国勧業博覧会に御奨励のためお出かけになり、お留守になったことがあったが、その他には全くお出かけにならなかった〉
(27頁)

坊城が仕えたころの明治天皇は、必要最小限の行幸しかしなかった。それは天皇がひとたび外出するや、大がかりな警備や規制がしかれ、国民生活に重大な影響が及ぶことをわかっていたからだと言うのである。