社員は猛反発…「生理用ナプキン」で成功を収めた男性起業家の人生

自分の痔にもナプキン
田中 ひかる プロフィール

坂井泰子と高原慶一朗

当時、ナプキン市場はアンネ社の寡占状態だったが、高原は技術的にはすぐに追いつけるという自信があった。

正々堂々とアンネに戦いを挑むために、表敬訪問と同時に図々しくも工場見学を申し出た。社長は私より3歳年下の女性。当時としては珍しい存在で、マスコミからも注目を集め時の人だった。
誤解を恐れずに言わせてもらうと、「女に負けてたまるか」と本気でそう思った。なかなか面会はかなわず、卸問屋業界の賀詞交換会で「四国の田舎者ですがよろしくお願いします」とあいさつした。取引のあった機械メーカーの人に何度もお願いし、その口ぞえでやっと工場も見学できた。清潔な工場に機械が整然と並んでいて川之江の工場とは雲泥の差だった。(3)

「女に負けてたまるか」はいただけないが、「のちにはみとれ」の精神の高原が、すでに成功を収め、「時の人」となっていた坂井泰子に対抗意識を抱いたことは、わからなくもない。

女性の生活を快適にしたいという思いから生理用ナプキンを開発したものの、あまり収益に頓着のなかった坂井泰子、そして起業家として「ナンバーワン」を目指した高原慶一朗の好対照が、生理用ナプキンの発展を軌道に乗せたのである。

 

スーパーマーケットに卸して大成功

アンネ社に宣戦布告した矢先、高原の父が経営する国光製紙の襖紙の工場が火災に遭ってしまう。

これからの時代、襖紙よりもナプキンのほうが成長を見込めると考えた高原は、父に頼み、火災に遭った工場を生理用品の原紙を製造する工場へと替えた。これにより、原紙の調達から商品化までが一貫して行えるようになった。

発売の翌年(1964年)には、年商1億9200万円(建材部門は1億2400万円)を売り上げ、ナプキンは大成化工の中心事業になった。建材事業も順調だったが、社名が生理用品にはそぐわないため、1965年に生理用品の販売会社「チャーム」を立ち上げた。

現社名の「ユニ・チャーム」となったのは、1974年のことである。「ユニ」には「ユニーク(独特)ユナイテッド(協働)ユニバーサル(国際的)」な会社でありたいという願いが込められている。

チャーム社は、高原のアメリカ視察の経験から、日本で登場しはじめたばかりの大型スーパーマーケットにナプキンを卸した。これが大成功につながった。

「アンネに追いつき、追い越せ」を目標に掲げていた高原は、1971年、ついに売上高でアンネ社を抜き去った。

1973年に起きたオイルショックの際には、トイレットペーパーやティッシュペーパーに加えて生理用品も品薄となったが、チャーム社は必死の増産体制でナプキンの供給に努め、流通、小売業界の信頼を獲得し、シェア拡大につなげることができた。