本庶先生と小野薬品「苦節22年、ノーベル賞までの道のり」

オプジーボ開発にかけた執念と確執
週刊現代 プロフィール

アメリカから救いの手

1つの薬に頼りすぎたのが裏目に出て、この薬の特許が切れると、他社が相次いで後発品を販売。小野薬品の売り上げはみるみる下降線を辿る。

そんななかでオプジーボを開発するのは、無謀とも言えた。

「がん治療薬の開発費は、一般の薬よりも高騰しています。がんというのは遺伝子の変異が積み重なって発症するもの。どの遺伝子に問題があるかは人によって異なるため、同じがんでも有効な薬が違ってきます。

また、臨床試験では特定のがんを持った患者だけを集めなければいけない。だから通常の薬に比べて、手間も費用も嵩むのです。

海外の大手製薬会社のような資本力のある企業は、当たるかどうか分からない薬への大きな投資も行いますが、日本では難しい。オプジーボ開発を始めるのに大きな決断が必要だったのは確かでしょう」(サイエンスライター・佐藤健太郎氏)

松本氏が振り返る。

「プロスタグランジンに先がないなかで、どうすれば今の状況を乗り切れるのか。それが経営者としての私の最大のテーマでした」

だが、ない袖は振れない。松本氏も一時は開発を断念し、辞退を申し入れざるを得なかった。

そのとき、一筋の光明が差す。米国の医薬ベンチャーで、小野薬品に不足していたヒト化抗体技術をもつメダレックス社が共同開発に名乗りを上げたのだ。本庶教授が小野薬品に話を持ち込んでから3年後のことだった。

当時、メダレックス社のサイエンス・ディレクターを務めたニルス・ロンバーグ氏の証言。

「私は、'92年にPD-1が発表された時からDr.本庶を知っていました。'05年、彼に共同研究を提案された時、彼はすでに免疫システムの分野で大きな貢献を果たしていた。当時は日本だけではなく、ヨーロッパの企業も免疫療法に懐疑的でしたが、彼の才能に間違いはないと、わずか1時間の説明で提携を決めました」

最低限の準備は整った。あとは小野薬品側が資金的な決断をできるかどうか。オプジーボに賭けて特化すると、プロスタグランジンの二の舞となる可能性もある。それでも松本氏は決断した。

「会社ですから、反対する意見も多くありました。しかし、小野薬品が独力で生き残っていくのは困難だった。小野薬品には、優れた学術的な力をもった、本庶先生のような研究者が必要だったのです」(前出・松本氏)

こうして、ついに共同研究が始まり、人での臨床試験にも乗り出した。しかし、今度は新薬を創るという行為そのものの困難が待ち受けていた。

「免疫療法を『詐欺まがいのもの』と見る風潮は根強かった。臨床試験でも、症例に合った治験者をなかなか紹介してもらえず、数ヵ月待ちになることもあったそうです」(製薬業界関係者)

 

開発は失敗するかもしれない。しかし、一度投資を始めたからには、途中で降りたら莫大な損失だけが残る。売り上げの低空飛行が続いても、成功を信じて資金を捻出し続けるしか道はなかった。

'11年、再び追い風が吹く。免疫療法にいち早く目をつけた米国の巨大製薬会社BMSが、メダレックスを買収したのが転機となったのだ。

「BMSはがん治療の分野で飛び抜けた存在でした。彼らはDr.本庶の提案を受け入れ、すぐに共同研究を始めます。以前は、BMSの主力商品は抗がん剤でしたが、Dr.本庶と出会って、ほとんどを免疫系に転換した。これは驚くべきことです」(前出・ニルス氏)

巨大製薬会社の方針も変えてしまうほどの「劇薬」だったオプジーボ。BMSの資金力も味方につけ、ついに'12年、臨床試験でも抗がん作用があることを発表。'14年には国内で悪性黒色腫治療薬として承認。PD-1の発表から実に22年もの年月が経っていた。

発売中の「週刊現代」ではオプジーボ開発成功の鍵について、さらに本庶先生と小野薬品との確執にも詳述している。

「週刊現代」2018年10月27日号より

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