本庶先生と小野薬品「苦節22年、ノーベル賞までの道のり」

オプジーボ開発にかけた執念と確執
週刊現代 プロフィール

新薬開発のトラウマ

翌年、本庶教授と石田氏は連名でPD-1分子について発表するも、他の研究者からの反応はなかった。そんな金の卵かガラクタかも分からないものに目をつけたのが、小野薬品だった。

「'92年、PD-1が何物かも分からないなかで、小野薬品は国内外での特許を取得してくれました。この分子を発見する10年以上も前から、小野薬品は社員を本庶研究室に出向させていて、繋がりがあったのです。申請料は1つの研究室で賄える額ではなかった。決して安くない費用を負担してくれたのは、非常に有り難いことでした」(前出・石田氏)

その後、石田氏は別の研究のために渡米し、PD-1の研究は引き続き、本庶研究室で行われた。しかし、なかなか石田氏のもとに吉報が届かない。実験に携わる後輩からは「この研究で学位が取れるか心配だ」という声すら聞かれたという。

研究に進歩が見られたのは'02年。マウスでの実験でPD-1に抗がん作用があると発見された。これで新しいがん治療薬が開発される―。そう期待されたが、石田氏は楽観していなかった。

「創薬しても上手くいかないだろうと思っていました。マウスで実験して効果が得られても、人では成功しないのが創薬の世界の常。それほど開発は難しいのです。PD-1も、製品化されずに終わった多くの化合物と同じ運命を辿るだろうと思っていました」

抗がん作用が実証されてから、本庶教授はオプジーボの創薬に向けて動き出す。恩師でもある京大の早石修教授(当時)は、かつて小野薬品と共に陣痛誘発剤であるプロスタグランジン製剤を開発したことがあった。

その縁もあり、小野薬品に創薬の話を持ち込んだのだ。すでに述べたように、このとき社長を務めていたのが松本氏だ。しかし、そこには根本的な問題があった。

 

「小野薬品は、がんに関する薬を扱ったことがなく、また、開発に必要なヒト化抗体技術も持っていませんでした。この技術をもつ企業と提携する必要があり、様々な企業に打診したそうですが、全社から断られてしまった。

その頃は、効果のない免疫療法が横行しており、すでに著名な存在だった本庶先生の提案であっても、眉唾ものの薬に巨額を投じる企業はなかったのです」(医療ジャーナリスト・塚﨑朝子氏)

がんの薬を作ったこともなければ、単独で開発できる資金力もない。さらに小野薬品には新薬開発におけるトラウマもあった。前出の松本氏は当時の状況をこう語る。

「私自身も開発に携わったプロスタグランジンは、一時、小野薬品を支える柱になりました。しかし、この薬に特化しすぎてしまったのです」