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本庶先生と小野薬品「苦節22年、ノーベル賞までの道のり」

オプジーボ開発にかけた執念と確執

たとえすぐに実を結ばなくとも、新しい可能性に賭け、業績が振るわないなかでも研究を続けた。本日発売の週刊現代では、逆風に抗って、古風なやり方で成功を導いたノーベル賞学者と大阪の中堅企業の奮闘が明かされる。

売り上げの3割を開発費に

「製薬企業にかぎらず、今の会社は、利益の出そうな良い『種』を手早く買い取るケースばかり。小野薬品には、会社の思想に従って地道に、人に役立つものを生み出そうとする伝統があります」

小野薬品工業元社長の松本公一郎氏(77歳)はこう語る。

京都大学の本庶佑特別教授(76歳)が「PD-1」分子を発見し、がんの「免疫療法」を確立した功績でノーベル賞を受賞した。

それを機に注目を集めているのが、オプジーボを開発した小野薬品だ。冒頭の松本氏は'90年から開発本部長を務め、'02年に本庶教授からオプジーボの開発を打診された時には社長だった人物でもある。

小野薬品は、大阪に本社を構える中堅製薬会社。オプジーボを商品化する以前の'13年度の連結売上高は約1432億円。世界の医薬品メーカー売り上げランキングは84位だった。

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当時の世界1位スイス・ノバルティスは医薬品(処方薬と大衆薬の合計)だけで493億ドル(約5兆5000億円)の売り上げだから、40分の1程度だ。そんな日本の小さな会社がオプジーボと今回のノーベル賞により、株価も急上昇している。

そもそも1つの新薬を開発するには約3000億円かかるため、莫大な資本力をもつ巨大企業が勝つと言われている。小野薬品はそれらに対抗するため、オプジーボ開発に全売り上げの実に3割を注ぎ込むような投資を続けてきた。

 

結果的に成功したからいいが、1000に3つと言われる創薬の世界ではあまりに大きなリスクだった。なぜ小野薬品は、会社が潰れてもおかしくないほどのリスクを背負って本庶教授との共同研究へと身を投じたのか。

決断を下した当事者たちの22年にわたる苦闘に迫る―。

物語の始まりは、一人の大学院生。かつて本庶教授の研究室に所属し、現在は奈良先端科学技術大学院大学准教授を務める石田靖雅氏(57歳)だ。

石田氏本人が語る。

「'91年、免疫細胞が自分を攻撃して死んでしまう『細胞死』という現象を研究している時に発見したのがPD-1でした。つまり、まったく別の目的で研究をしている時に見つかったのです。

発見した時は、抗がん作用があるとは誰も想像していませんでした。それどころか、本当に細胞死に関わっているかも確証がなく、本庶先生と一緒に『うーむ、これは一体なんなんや』と唸りました。この分子がこれほどまでの成功を収めるとは、想像も期待もしていなかったです」