美智子さまは眞子さまと小室圭さんのご結婚延期をどう考えているのか

皇室ジャーナリストの、ひとつの見方
渡邉 みどり プロフィール

当然ながら、久邇宮家に対して「ご婚約辞退の勧告」といった圧力もかかった。このことは、さらに波多野敬直宮内大臣の更迭にまで波及したといわれる。明治維新以来、日本の政界を二分してきた薩摩と長州の勢力争いでもあったのである。

こんなこともあった。良子さまの母・久邇宮俔子妃が娘を連れて貞明皇后にご機嫌伺いに上がりたいと宮中に電話を掛けても、

「ご都合が悪いのでまたの日になさるように」

という返事が多くなったのである。電話を取り次ぐ女官までが、薩長で真っ二つに割れていたのだ。

 

そのとき、良子さまの皇后学の師の一人であった杉浦重剛氏は、突然辞表を提出した。そして、「綸言(りんげん)汗の如し」という言葉を引き、「君主の言葉は、出た汗のように、一度発したら引くことはできない。ゆえに東宮妃内定を破談にしてはならない」と、倫理上から東宮妃内定を取り消してはならないと反論した。

そして、さまざまな経緯を経ながらも、1921年(大正10年)2月10日夜のことだった。

宮内省は、「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」と発表したのである。

これでご結婚に関する障害は、なくなったかに見えた。ところが、さらに難題が降りかかるのである。

関東大震災で、ご婚儀はさらに延期に

色覚異常疑惑問題が解決した翌3月、裕仁親王は6ヵ月間にわたるヨーロッパ歴訪の旅に出発された。裕仁親王はこの外遊中に満20歳を迎えられ、自由な空気のなか、ヨーロッパのマナーを身につけられた。

1922年(大正11年)6月20日、宮内省は「皇太子殿下と良子女王殿下と御結婚の儀本日勅許あらせられたり」と発表した。「納采の儀」はその年の9月に行われた。ようやくご婚約されたのである。