東大弁論部設立を裏で支えた野間清治の配慮と鬱屈

大衆は神である(22)
魚住 昭 プロフィール

清治が置かれた微妙な立場

緑会弁論部の発会式は明治42年11月14日に開かれた。他校の学生を含めて千数百人の参加者があり、法科で最も大きな三十二番教室が立錐の余地がないほどの盛況ぶりだった。

午前9時すぎ、発起人代表の寺田四郎が開会の辞を述べ、「わが弁論部は決して政治問題や時事問題を論議せんとするにあらず、学問と芸術の上に立つを主とする」と宣言した。

 

つづいて梅謙次郎、三宅雪嶺(せつれい。東京帝大OBの評論家)、松波仁一郎、文部次官・岡田良平(同OB)が演壇に上がり、学生弁士として鶴見祐輔、芦田均らも演説した。

以下は、寺田四郎の証言である。

〈すると、そこ(32番教室)に法科大学の書記たる野間さんが速記者を連れてきて、速記をとっているんだ。そのとき法科大学では東譲三郎さん(松永武雄の後任)が書記長で、野間さんはその下役だ。この弁論部の発会式に野間さんが来ているが、何のために来ているのか。当時、法科大学では書記より学生のほうが威張っていたから、私が野間さんに「何しにここに来られたのですか」と訊ねたら、野間さん曰く、「実は今日、穂積学長に命ぜられて……。あなた方が今日、学内で演説をやるからというので来たのだ。穂積学長がこの弁論部設立に反対したということを知っているし、学長の命令だから私の当然の職務として来たのだ」と〉

この証言は、当時の清治が置かれた微妙な立場をよく表している。清治の職務は学生たちの動向を学長に報告することだ。報告の内容次第で学長の判断は変わる。むろん清治は大の演説好きだから、穂積の反発を和らげるようさまざまな手を打ったにちがいない。

ところが、清治の陰の働きは発起人に評価されていなかったようだ。あるいは、書記の存在など学生たちの視野にハナから入っていなかったのかもしれない。発会式の最中に撮られた記念写真には弁論部の主要メンバーと教授たちが全員顔をそろえているが、清治の姿はない。

今晩は大いにしゃべる

発会式の後、梅を中心に学生30〜40人が集まって晩餐会が開かれた。ビールも出て、みんなが順に一言スピーチをした。意外な出来事が起きたのはその直後である。鶴見祐輔の証言。

〈野間さんは梅先生の側へ座っておった。その時までああいうところへ立たれなかった野間さんが突如として立たれた。書記である野間さんがいったい何を言おうとするのか。当時、忠実な事務の方とばかり想像していたし、もちろん先生でもなく、学生でもない野間さんなので、一同異様な感に打たれた。野間さんは立たれるや「この演説会をここまで持ってきたのはもちろん梅先生のご尽力であるけれど、いったい今日これだけの会場を世話して、机を並べたり、弁当の世話をしたり、立て看板を立てたり、ビラを出したり、ポスターを出したりしたのは誰であろうか。それはみんな、隠れた私がなしたのである。私は法科大学に来てからすでに三年、今日まで鳴かず飛ばずに歳月を過ごしたが、今晩は大いにしゃべる」と言ったのです。すると梅先生が「三年鳴かず飛ばず、鳴けば大いにやるか」といって、面白そうに笑われたのです。今とちがって上下の階級が非常に厳しいときであり、何だ、と思った人もありましたが、ご本人はすでに非常に決心しておられたのでしょう〉

積もりつもったうっぷんを一気にはらすような清治の演説だった。学生たちは言われてはじめて、清治の働きに気づいたにちがいない 。講談社の第1号雑誌『雄弁』創刊への道は、このとき開けたと言ってもいいかも知れない。

(第2章、了。第3章へつづく)

■第2章の主な参考文献

石山幸弘「『東北評論』の周辺──茂木一次と大澤一六を中心に(特集 大逆事件100年)」(『初期社会主義研究』第22巻、初期社会主義研究会、2010年)
伊藤整『日本文壇史8 日露戦争の時代』(講談社文芸文庫、1996年)
講談社社史編纂委員会編『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』(講談社、1959年)
塩田庄兵衛・渡辺順三編『秘録・大逆事件』上巻(春秋社、1959年)
思想の科学研究会編『共同研究 転向』全3巻(平凡社東洋文庫、2012年)
辻平一『人間野間清治』(講談社、1960年)
中村孝也『野間清治伝』(野間清治伝記編纂会、1944年)
野間清治『私の半生・修養雑話』(財団法人野間教育研究所、1999年)
『啄木全集』〈第6巻〉日記(2)(筑摩書房、1978年)