東大弁論部設立を裏で支えた野間清治の配慮と鬱屈

大衆は神である(22)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

学長・穂積八束の反対により、設立が頓挫しかけた東京帝国大学弁論部だが、名物教授であった梅謙次郎の支援もあって、なんとか発会にたどり着く。その設立には、法科の首席書記であった野間清治の陰の努力があったのだが……。

 

第二章 『雄弁』創刊前夜──帝大書記 ⑸

ついに総長の許しも

緑会弁論部の話に戻ろう。寺田らは梅の後押しを受け、松波仁一郎(海事法)、土方寧(やすし。英法)らの教授や、助教授の吉野作造(政治学)たちに働きかけ、学生の賛同者も増やしていった。

やがて法科3年の鶴見祐輔や、4年の前田多門、青木得三(のち大蔵省主税局長)ら、すでに学生弁論界のスターになっていた者たちもこの動きに同調した。

寺田らの熱心な活動は明治42年の夏休み中もつづいた。口述録で清治は当時のことをこう語っている。

〈自分が緑会のボートのことも、あるいは陸上運動のことも、一切合切、緑会のことをやっている関係もあって、学生諸君からしきりに話をうける。学長の許しを得たいものである。総長の許しを得たいものである。自分もその方面はもともと好きなので、そういうものは大学にもあったほうがよいように思っておったものですから、力を合わせてだんだん学長にも申し上げ、総長にも話して、とうとう許されるということになりました〉

さすがの穂積も大勢に抗しがたかったのだろう。ただし、穂積は弁論部発足を認可するにあたり、東京帝大出身者以外を弁士として呼ばないこと、政治や時事を論じないこと、という二つの条件をつけた。弁論部が、社会主義などの不穏思想の巣窟になることを防ぐためである。

爆裂弾

ちょうどそのころ、新村忠雄や宮下太吉らによる天皇暗殺計画が進んでいた。宮下がブリキ缶爆裂弾を試作し、11月3日、長野県明科(あかしな)の大足(おあし)山中(現・長野県安曇野<あづみの>市)で岩に投げつけてみた。すると、非常に大きな音がして、10メートルほど離れていた宮下が爆風で倒れそうになった。

宮下はこの結果を東京の新村に伝えた。約2ヵ月後、新村と管野スガ、新たに加わった古河力作の3人が集まり、「いよいよ(明治43年)秋に計画を実行すること、古河がわりあい警察に知られていないから、元首の通行の道筋を調べ、適当な場所を選定すること、管野は合図役にすること、爆裂弾は宮下と私でもう一度実験すること」(新村の検事調書)などを話した。

一方、かねてから宮下をマークしていた松本警察は宮下の工場の守衛に元巡査を潜り込ませるなどして、宮下の動向監視をつづけた。それからまもなく発覚する大逆事件が、はじまったばかりの清治の出版人生に大きな壁となって立ちはだかることになる。