# 有機農業 # ナチス

エコの代名詞「有機農業」が、ナチスと深く関わった過去

収容所で有機ハーブティーが育成された
藤原 辰史 プロフィール

有機農業の哲学を再構築するために

以上のように、有機農業はナチスに利用された過去をもつ。しかし、現在の有機農業の関係者は、そのような過去に対してまだきちんと向き合っていない。ナチズムの根幹を知らぬままでは、似た道を通る危険性も皆無ではない。

奇しくも、2015年から国連は国際土壌年とし、12月5日を世界土壌デーとするなど、土壌の破壊阻止に本腰をあげているなかで、土壌の存在の重さを歴史的に位置づける作業が求められている。

また、現在、農政はいうまでもなく、有機農業の現場からも、「哲学」が徐々に弱くなくなってきていて、マーケットばかりに目が行くようになってきている、という話を聞く。

「哲学」とは、健康長寿といった自己愛的なものではない。農業はどれほど環境を破壊して来たのか、そして今後の社会建設のなかで農業はどのような役割を果たしうるか、という問いであった。

農業で儲けることはけっして悪いことではないし、農家が生きて行くうえで当然のことだが、有機農業にかつてあった哲学の魅力はそれ自体、先行きが不透明な時代に迷いが生じたときの、そして農政が有機農業を守り育てていくための羅針盤となる。

わたし自身は、拙著『戦争と農業』で、トラクターと戦車、化学肥料と火薬、毒ガスと農薬という大量生産型戦争技術と大量生産型農業技術の製造工程の類似性を指摘した。こうした技術システムとは別の道を模索するためにも、有機農業は単なる農法を超えた「指針」を与えてくれる、と述べた。

農業の技法の見直しとは、わたしたちの生きる技法そのものの見直しに直接つながる以上、有機農業は重要な点を突いていると思うからである。

 

「ナチス的なもの」に絡め取られないために

こうしたことを考えていくうえで、わたしも含めてナチス的な考えに陥らないために、今後の有機農業がどのような哲学を紡いでいくべきか。三点ほど指摘して、本論を終えたい。

第一に、排除の構造がないかつねに点検を怠らないことである。有機農産物はどうしても値段が高いゆえに、低所得者層はなかなか買うことも食べることもできない。低所得者層は健康になってはいけないのか、という受け取り方さえされてしまう。実はこの点は、有機農法の関係者のあいだでも繰り返し議論になっている。

そして、できるかぎりさまざまな人々に自分の農作物を届けたいと考えている有機農業の関係者はとても多い。

この議論をさらに進めて、たとえばいまブラジルで起こっているように、高脂肪・高カロリーの食事が多い低所得者層にこそ有機農産物を食べてもらう、という運動を起こすことや(ブラジルの農業に詳しい印鑰智哉さんからご教示いただいた)、通常の流通経路とは別の経路を確保し、たとえば、規格に合わず、あるいは穫れすぎて圃場に廃棄された農産物を利用する試みを進めていくべきだろう。

第二に、人口論に陥らないこと。エコロジストのなかには、地球上に住む適正の人口を主張する人もいる。しかし、こうした類の人口論を支持したのは、ほかならぬヒトラーやヒムラーたち、あるいは、核戦争になったとき誰が核シェルターに入れるかを延々と議論をしつづけたアメリカ政府であった。「限られた空間」に住むことができる人種を選ぶ。こんな議論は絶対に避けたい。

第三に、景観保全という考え方にも注意が必要である。ドイツ的な景観を東方に移植してく考えをヒムラーは持っていたことはすでに述べた。有機農業を営むことで、有機物が土壌に投じられ、木々が生え、森が生い茂り、殺伐たる風景が消えていき、人間がすくすく育っていく、というヒムラー考えは、スラム・クレンジングの考えと遠くない。

景観の保全のために住民を追い出す、国立公園を作るために先住民を追い出す、という非人間的な思考に陥らないことが、来るべき人間と自然の関係を探るうえで大きな試金石となる。