「日本のフランスパンは世界一」に大貢献した、あるパン職人の生涯

この人なしで日本のパン文化は語れない
阿古 真理 プロフィール

現存する最古のフランスパンの店は、文京区関口にある「関口フランスパン」である。こちらの店は、小石川関口教会(現カトリック関口教会)が経営する孤児院が、子どもたちに手に職をつけさせようと発足した製パン部が出発点。神父は子どもたちの一人をフランス領インドシナ、現在のベトナムへ派遣し、修業させている。

実際にフランスへパン修業で日本人は、京都で展開する進々堂の創業者、続木斉が最初である。留学したのは1924(大正13)年だった。

その後、戦争の時代がやってくる。パン屋も第二次世界大戦中は、休業や廃業を余儀なくされる受難の時代だった。コメすら満足に手に入らず、ひもじい思いをしていたあの頃、フランスパンを受け入れて発展させる余裕などあったはずがない。

戦後、最初に広まったパンは、コッペパンだった。アメリカから救援物資としてたくさんの小麦粉が提供されたことがきっかけで、児童の栄養不足に対応するために小学校で完全給食が始まったのだ。この時代に育ったシニア世代は、コッペパンと脱脂粉乳の給食の思い出をよく語る。

〔PHOTO〕iStock

フランスパン作りを見て涙を流した

フランスは、行きたしと思えど遠し。それはかの国に憧れるパン職人たち共通の思いだったに違いない。何しろ日本は貧しく、円は安かった。そんな時代に、一人のフランス人がやってくる。

高度経済成長期が始まろうとする1954(昭和29)年9月、東京パンニュース社(現パンニュース社)と食糧タイムス社共催、農林水産省、厚生省(現厚生労働省)後援で開かれた国際製パン技術大講習会に講師の一人として招かれたのである。大盛況だった全国17ヵ所を巡った業界向け講習会で最も注目されたのが、フランスパンの実演だった。

そのときフランスパンを作ったのは、パリの国立製粉学校教授で、フランスのパンの技術指導において多大な貢献をしたレイモン・カルヴェル氏である。

 

当時のパン職人たちは、フランスパンやその作り方は知っていたが、本場の本物は知らない。誰もフランスへ渡ったことがなかったからである。だからこそ、食の都からやってきたプロフェッショナルが作る本物のパンを一目見たいという職人はたくさんいた。

カルヴェル氏がフランスパンを作るさまを見て感激の涙を流した職人の一人が、33歳の青年社長だった「ドンク」の藤井幸男氏である。

藤井氏は10年後の1964年2月、フランスへ渡りカルヴェル氏の自宅を訪問する。

9月、講習会のため再来日したカルヴェル氏は、ドンクを訪ねた後、フランス大使館へ行き、翌年に日本で開かれる国際見本市にフランスパンのブースを設けるよう掛け合う。

藤井氏は、その際使った機械はドンクで引き取り、来日する職人とも契約を結びたいと申し出る。1965(昭和40)年、カルヴェル氏に選ばれて来日した弟子が、若干22歳のビゴ氏だった。

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