またか…「教育勅語」の再評価が繰り返されるシンプルな理由

「普遍性がある」論争の傾向と対策
辻田 真佐憲 プロフィール

戦前から指摘されていた不完全さ

そもそも具体的な徳目の部分(「父母ニ孝ニ」〜「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」)にしても、戦前すでに不完全さが何度も指摘されていた。

「教育勅語」は、1890年に発布された。これは日清戦争の前にあたる。当時の日本は極東の弱小国家だったため、その徳目も慎ましいものだった。夜郎自大な神国思想はもちろん、国際関係などへの直接的な言及もなかった。

そのため、日本が大国化するにつれて「教育勅語」を改訂しようとする動きが起こった。最終的に頓挫するものの、日清戦争後には、まさに国際親善に関する文言の起草が行われたこともあったのである。

今回、柴山文科大臣は、「教育勅語」の「今も使える」部分について問われて、「同胞を大切にする」部分や「国際的な協調を重んじる」部分をあげた。

前者もいまいち謎だが、後者はとくにどの部分を指しているのかわからない。本当に原文を読み、歴史的な文脈を踏まえているのかどうか、不安になってくる。

 

愛国コスプレとしての「教育勅語」

このような問題があるにもかかわらず、なぜ「教育勅語」がここまで再評価されているのだろうか。それは、「教育勅語」がわかりやすい保守の記号になっているからである。

本当の中身などはどうでもよい。ただ、自分に都合がいい解釈で「教育勅語」を肯定してみる。全肯定はさすがにまずそうだから、「普遍的な部分もある」。この振る舞いによって、「わたしは反戦後民主主義=反左翼=保守だ」という空虚なアピールをしているわけだ。「教育勅語」自体は、そのための道具にすぎない。

だからこそ、原文を無視したデタラメな「口語文訳」や、原文をつまみ食いした「12の徳目」なるものが出回ったりするのである。

昨年、稲田朋美防衛大臣(当時)もこうした「口語文訳」にもとづいて「日本が道義国家を目指すという、その精神は今も取り戻すべき」と述べて批判を浴びた。いうまでもないが、「道義国家」などという言葉は原文にはない。

それゆえ、「教育勅語」の部分的肯定論に「戦前回帰だ」との批判を投げかけても仕方がない。

これは、森友学園の愛国教育と同じく、戦前の二次創作、愛国コスプレなのであって、本来の戦前とは関係ないからである(天皇の存在を無視するかのようなアレンジや解釈は、戦前であれば不敬罪に問われたであろう)。