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またか…「教育勅語」の再評価が繰り返されるシンプルな理由

「普遍性がある」論争の傾向と対策

「教育勅語」には普遍的な部分もある――。

またこれだ。やれやれ。村上春樹作品の登場人物のようにため息もつきたくなる。

柴山昌彦文科大臣が10月2日の就任会見で、「教育勅語」に対する認識を問われて、現代風に解釈されたり、アレンジした形であれば、道徳などに使える「分野」が十分にあり、その意味では「普遍性を持っている部分が見て取れる」と答えたのである。

このような「教育勅語」の部分的肯定論は、アジア太平洋戦争の敗戦直後から見られた。法学者の田中耕太郎(1946年、当時文部省学校教育局長)や、倫理学者の天野貞祐(1950年、当時文部大臣)などの議論がそうだ。

「教育勅語」は、形式の面では、君臣関係を前提として、父権主義的な色彩が濃い。だが、内容の面では、普遍的な部分がかなりある。だから全否定するのはよくない。かれらはそう主張したのである。

以後、多少の違いはあれ、「教育勅語」の部分的肯定論は同じパターンを繰り返している。

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「天皇と臣民の上下関係」こそ根幹

だが、「教育勅語」の根幹は、天皇と臣民の上下関係である。この関係を前提にして、天皇が臣民に対して守るべき徳目を示している。この前提を取り除けば、それはもはや「教育勅語」ではない。

安倍内閣は、官房長官や財務大臣を入れ替えても安倍内閣だが、首相を入れ替えれば、別物になってしまう。根幹とはそういうことだ。いくら解釈し、アレンジするといっても、おのずと限界があるわけである。

 

したがって、「教育勅語」は、国民主権の現行憲法に適合しない。個々人で愛好するのは自由だが、公教育で道徳規範として使うべきものではない。

それでもなお、天皇云々抜きで、列挙された徳目のなかには普遍的な部分もあるというのだろうか。それならば、「教育勅語」とは別に道徳規範を考えればいいのであって、わざわざこの読みにくい文書に拘泥する必要はない。