「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感

差別批判の論理はこう変わった
綿野 恵太 プロフィール

単純な善悪二元論を超えて

一連の炎上騒動の背景に「シティズンシップ」の論理がある。たとえば、パワハラは「市民の尊厳」という観点からでなければ、問題視できないからだ。

もちろん、誰もが差別を批判できる状況はすばらしいことだ。しかし、問題は炎上ネタとして消費されつつあることだ。

炎上は単純な善悪二元論で成り立っている。差別者は悪であり、正義はこちら側にある。

しかし、そのような単純化が可能なのは、「わたしも足を踏んでいるかもしれない」という問い直しがないからだ。だから、誰もがおのれ自身を顧みることなく、差別を批判することができる。

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たしかに、「シティズンシップ」の論理はアイデンティティ・ポリティクスの問題を乗り越えた。しかし、いっぽうで「わたしも足を踏んでいるかもしれない」という問いかけも失わせてしまった。

市民として見なされたとしても、わたしたちがもつさまざまなアイデンティティは消えてなくならないのだ。

「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という言葉で重要なのは、差別を「足を踏む」に喩えていることである。

「殴る」や「蹴る」は意図的な行為だが、「足を踏む」は意図的な行為だとはかぎらない。誰しも電車の中で他人の足を踏んでしまった経験があるだろう。自分が踏んだことに気づかなかったこともあるかもしれない。

つまり、この比喩は、何気ない日常的な行為に差別があることをしめしている。差別とは、ヘイトスピーチといったあからさまな侮蔑表現だけではない。反差別運動とは、当たり前だと思われた行為や制度が実はおかしいものだ、ということをしめす運動であった。

たとえば、かつて女性は仕事に就かず、家庭で家事労働をおこなうのが当然とされていた。しかし、そんなことはおかしいと声をあげたのが、フェミニズムだった。

かつて重度障害者は地域ではなく施設で暮らすのが当然とされていた。しかし、そんなことはおかしいと声をあげたのが、障害者運動だった。

 

一連の炎上騒動において、どんな社会的制裁を加えるか、という点ばかりに注目が集まっている。問題の背景を考察するひまもないままに、次から次へと悪者が告発されている。

集団のうちの一人を攻撃することで、集団の結束力を高めることをスケープゴートという。一匹の山羊に罪をかぶせて追放することで、罪をつぐなう宗教儀式がその由来となっている。

一連の炎上はスケープゴートそのままである。差別者にすべての罪をかぶせて追放することで、わたしたちの差別を帳消しにしているかのようなのだ。

もちろん、そんな儀式で差別はなくなりはしない。目の前にある現実が見えなくなるだけなのだ。