「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感

差別批判の論理はこう変わった
綿野 恵太 プロフィール

アイデンティティよりも守るべきもの

たとえば、ヘイトスピーチの問題で考えてみよう。

先ほどのロジックで言えば、在日朝鮮人へのヘイトスピーチを批判できるのは在日朝鮮人だけである。しかし、知られるように、多くの日本人もヘイトスピーチを批判してきた。

ここで興味深いのは、対レイシスト行動集団 C.R.A.C.(レイシストをしばき隊)を結成した野間易通が、「しばき隊は、マイノリティに寄り添わなかった」「我々は常にアイデンティティ・ポリティクスと冷淡であったと思う」と述べていることだ(『実録・レイシストをしばき隊』河出書房新社、2018年)。

順をおって見てみよう。

アイデンティティ・ポリティクスとは、在日朝鮮人やゲイといったアイデンティティにもとづく反差別運動のことだ。

差別は特定のアイデンティティ(人種、民族、ジェンダー、性的指向、障害など)をもつ者に向けられる。だから、運動において同じアイデンティティをもつ者が集まって、差別に対抗していくことになる。

「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」とは、マイノリティがマジョリティにたいして非難の意味を込めて向ける言葉だ。

たとえば、筆者はヘテロ日本人男性だが、「在日朝鮮人の苦しみがわかるか?」「ゲイの苦しみがわかるか?」と聞かれれば、やはり「わからない」と答えるしかない。これは居直りではない。わからないなりに考えていくしかないのだ。

マジョリティの人間が差別を批判したとしても、あくまでもその批判は二次的なものにすぎない。差別を本当に批判できるのはマイノリティだけなのだ。

アイデンティティ・ポリティクスは一見正しいように見えるが、問題点もある。

たとえば、野間によれば、「在日コリアンの被害者を無視している」「女性を入れないのはセクシズムだ」という非難が寄せられたという。つまり、「わたしたち(在日朝鮮人/女性)」と「おまえたち(日本人/男性)」というかたちで、運動内部の差別を可視化するいっぽうで、運動そのものを分断してしまうのだ。

また、マイノリティ集団のなかでも分断は発生する。たとえば、在日朝鮮人おける障害者問題やLGBT問題も十分に想像できる。実際、レズビアンへの差別が問題視されたことがあった(在日大韓基督教会レズビアン差別事件)。

 

であれば、差別に対して一致団結して闘うにはどのような論理が必要なのか。

ヘイトスピーチ規制法の必要性を訴えているアメリカの法学者ジェレミー・ウォルドロンを見てみよう。興味深いことに、野間とウォルドロンの両者はともに、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズを援用しているが、紙幅の都合上ここでは触れない。

ウォルドロンはヘイトスピーチ規制法について次のように述べている。

ヘイトスピーチを規制する立法が擁護するのは、(あらゆる集団のあらゆる成員のための)平等なシティズンシップの尊厳である。そしてそれは、(特定の集団の成員についての)集団に対する名誉毀損が市民からなるなんらかの集団全体の地位を傷つける危険があるときには、集団に対する名誉毀損を阻止するためにできることをするのである。(『ヘイト・スピーチという危害』谷澤正嗣ほか訳、みすず書房、2015年、P.72)

ここで重要なのは、法が守るのは「平等なシティズンシップの尊厳」であるということだ。

そして、尊厳とは「集団の個々の成員」の「尊厳」なのであって、「集団そのものの尊厳や、集団をまとめる文化的または社会的構造の尊厳」ではない(前掲書p.71)。

つまり、守るべきは、市民の尊厳であって、民族や人種といったアイデンティティの尊厳ではない。

くわえて重要なのは、在特会、ネオナチ、KKKといった排外主義もまたアイデンティティ・ポリティクスであるということだ。

「逆差別」という言葉が象徴するように、マジョリティであるわたしたちが逆にマイノリティに虐げられていると主張する。その主張がいかに間違っているとしても、形式面においてはアイデンティティ・ポリティクスと同じ行為をしているのだ。

アイデンティティの尊厳をもとに考えることは、実は排外主義と同じ土俵に立ってしまう。

しかし、シティズンシップの論理でいけば、マジョリティやマイノリティに関係なく、あらゆる人間が差別を批判できる。

もちろん、反差別運動において「アイデンティティ」と「シティズンシップ」の論理は、はっきりと区別できるわけではない。二つの論理はときに協力し、ときに対立してきた。

しかし、排外主義の台頭をうけて「シティズンシップ」の論理が優勢になりつつある。