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「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感

差別批判の論理はこう変わった

一連の炎上騒動「最大の問題点」

「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という有名な言葉がある。

差別は差別された者にしかわからない、という意味である。たしかに、いくら想像力を働かせたとしても、踏まれた痛みは直接体験できない。また、差別は差別された者だけが批判できる、という意味でもある。もしかしたら、私も気づかぬうちに足を踏んでいるかもしれないからだ。

しかし、杉田水脈LGBT生産性発言、「新潮45」休刊騒動では、当事者である性的マイノリティだけではなく、多くのひとびとが批判の声をあげた。みんなが差別を批判できる時代。一見、それは望ましい社会であるようだが、危機感を抱いている。

「新潮45」

まず言えるのは、杉田水脈問題が一連の炎上騒動の流れのなかにあることだ。

ハリウッド映画プロデューサーのセクハラ告発から始まった#MeToo運動、金メダリスト伊調馨による栄強化本部長のパワハラ告発、財務省福田淳一事務次官のセクハラ発言、日大アメフト部反則タックル強要問題、ボクシング協会山根会長のパワハラ告発、女子体操宮川紗江選手のパワハラ告発と体罰問題……。

#MeTooにはじまる一連の告発は、組織や業界の権力によって泣き寝入りしていた問題を、SNSやマスコミを通じて世論に訴えてきた。

しかし、一方で炎上ネタとして消費されたことは否定できない。まるで芸能人のスキャンダルと同じレベルで、差別やパワハラといった問題が扱われているのだ。

差別やパワハラがいけないことだ、という考えが世の中に浸透した結果でもある。だが、そうであればこそ、そう簡単に片付けられないはずである。しかし、次から次へと悪者が告発され、どんどんと忘れ去られていっている。

 

そして、最大の問題点は、どんな社会的制裁を加えるか、という点ばかりに注目が集まっていることだ。

たとえば、「新潮45」の杉田水脈擁護特集に執筆した小川榮太郎が批判されている。批判されてしかるべき内容の文章だと思う。

だが、「週刊文春」(10月11日号)に小川がネットワークビジネスに携わっていたと報道が出ているが、そのようなスキャンダルが小川の文章と何か関係があるのか。これでは批判ではなく、単なるいじめではないか。

今回の騒動でも、性的マイノリティの当事者よりも周囲の人間の声のほうがあきらかに大きい。もしかしたら、私も足を踏んでいるかもしれない。この問いかけがなくなったのが、この炎上騒動の原因だと考えている。

なぜ誰もが差別を批判できるようになったのか。差別を批判する論理が、「アイデンティティ」から「シティズンシップ」に代わりつつあるからだ。

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