東大の弁論部設立を巡って火花を散らした「高飛車学長と天才教授」

大衆は神である(21)
魚住 昭 プロフィール

穂積の学説は「権力関係・絶対服従の法理」が柱になっていて、主従関係を絶対視した。そのためか、彼は日常生活でも車夫と決して口をきこうとしなかった。

ある日、車夫が穂積を乗せて本郷の法科大学の門を入り、いつも通り梶棒(かじぼう)を玄関に下ろした。しかし、穂積は黙ったまま人力車を降りようとしない。

車夫はその意を察し、車を走らせて永田町の枢密院(いまの国会議事堂の地にあった。のち宮城(きゅうじょう)[皇居]内に移転)に至った。それでも彼は降りようとしない。

次に車夫が人力車を神田橋門内の大蔵省(いまの大手町1丁目。のち霞が関に移転)に走らしたところ、ようやく穂積は車を降りて所用をたしたという。嘘のような話だが、たぶんホントだろう。

こんな話もある。東京帝大助教授の結婚披露宴が行われたときのことだ。途中から侯爵・伊藤博文(いとうひろぶみ)が来賓として駆けつけ、席に着いた。すると会場の一隅から伊藤の前に歩み寄る者がいた。

 

彼は伊藤の面前数歩のところで歩みを止め、膝を床について恭しく一礼し、次いで膝をすりながら歩むこと三歩、また一礼した。

あまりの仰々しさに参列者たちが驚いていると、「何(なん)ぞ計(はか)らんこれ平生傲岸自尊(ごうがんじそん)をもって有名なる彼穂積八束が、この陋態(ろうたい)を演じつつありしならんとは。人間の膝行(しっこう)すでに奇なり、いわんや穂積八束の膝行においてをや」と『東西両京の大学』に記されている。

ちなみに穂積は、これほど尽くした伊藤博文に疎(うと)んじられた。穂積は明治26年(1893)、文部大臣の井上毅(いのうえこわし)から憲法教科書の執筆を依頼された。だが、穂積が書いた教科書は伊藤の不興を買い、庇護者だった井上も明治28年(1895)に死去した。以後、穂積は、政党政治を志向する伊藤から離反して、政党嫌いの山県有朋に接近していく。(註①)

一週間で300ページを丸暗記する男

一方の梅謙次郎は、自由主義的な法学者で、伊藤博文の懐刀だった。

幼いころから驚異的な記憶力で周囲を驚かせ、「地獄頭」と呼ばれた。司法省法学校時代、一週間で仏文教科書300ページを完全暗記し、答案にそのまま再現したため、かえって減点されてしまったというエピソードの持ち主でもある。

梅謙次郎

卒業後、フランスに留学。リヨン大学で3年半学び「和解論」で学位取得、リヨン市からヴェルメイユ賞牌を授与された。この論文は現在もフランス民法の解釈論として通用しているが、そのような日本人は今日にいたるまで存在しない。

梅は酒好きで、大酒を飲んで「ヨウヨウ」と奇声を発する癖があった。また鰻が大好物で、彼が初代総理となった法政大学の理事会の食事は鰻定食が慣例となった。韓国統監府の招請で彼が渡韓(明治43年)したとき、統監府では鰻代の出費が異常に増えたという。(註②)