東大の弁論部設立を巡って火花を散らした「高飛車学長と天才教授」

大衆は神である(21)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

実業への思いを強くする清治。ちょうどそのころ、「言論で世の中を変える」という機運が日本社会を満たしつつあった。それを象徴するのが、東京帝大法科大学での弁論部の設立だったが、発足までには一筋縄ではいかない経緯があった。学長と教授が対立を始めたのである。

「それは、いかん」と「なに、構わぬ」

寺田四郎は大井静雄とともに学長の穂積八束の私宅を訪ね、こう言った。

「実はこの間、緑会で私どもが発議して法科大学に弁論部を設けたいということを提案したところ、梅先生はじめ学生が賛同せられたので、学長のご承認を得なければならないと思って、あがりました」

穂積は、顎から筆先のように長くのびた文字通りの八束鬚をなでながら、

「それは、いかん」

と決めつけ、こうつづけた。

「かつて自分らが東大の学生であったころに、時あたかも自由民権がやかましく、特に法科大学学生がフランス革命とか自由民権云々を呼号したので、問題が起こって文部省から弁論部の廃止を命ぜられた。再びこういうことをやったら重大な問題になるから、法科大学長としてはこれを認可できない」

寺田らは反論したが、穂積の意思は揺るがなかった。困り果てた寺田は、大井や大沢とともに梅謙次郎宅を訪ねた。梅は明治期を代表する私法学者である。六法全書と印鑑を携えて応接間に現れ、それらを机の上に置いた。学生相手の話に六法全書や印鑑は必要ないはずだが、真剣に応対しているということを示すために、わざとそうしたのかもしれない。寺田は言った。

「穂積学長に(弁論部設立を)お願いしましたところ、ご認可になりませぬが、いかが致しましょうか」

もしも、このとき梅が「学長の許可がなければ諦めるしかない」と答えていたら、弁論部はできず、講談社も生まれていなかったかもしれない。

だが、梅はこう言い放った。

「なに構わぬ。弁論部をつくれ。君らの会なんだから」

法科の学長と有力教授の意見が真っ二つに分かれた。

 

穂積八束という人

穂積と梅は犬猿の仲だった。

穂積は天皇絶対の神がかり的な憲法学者である。明治憲法発布の日に法科の大教室に祭壇をつくり、祝詞(のりと)をあげたエピソードは有名で、彼の憲法理論は「高天原(たかまがはら)憲法論」と言われた。

穂積八束/『穂積陳重八束進講録』より

明治30年代の東京帝大と京都帝大の内情を描いた斬馬剣禅(ざんば・けんぜん)の『東西両京の大学』(講談社学術文庫)に、穂積の逸話が他にもいろいろ紹介されている。