沖縄返還と集団的自衛権違憲論
集団的自衛権は違憲だと内閣法制局長官らが公式に語り始めたのは、ベトナム戦争が激しさを増していた1960年代末頃であった。
当時の佐藤栄作首相は、アメリカのベトナム戦争に支持を表明する一方で、巻き込まれることを警戒していた。佐藤は、首相就任の翌年である1965年には、沖縄返還を目指すことを表明していた。
しかしその沖縄とは、連日のようにベトナムに向けて米軍基地から爆撃機などが離陸する場所であった。沖縄返還交渉は、ベトナム戦争と密接に結びつきながら、展開していくことになる。
1969年に佐藤は、ベトナムからの「名誉ある撤退」を掲げて前年の大統領選挙に勝利したニクソン大統領から、沖縄返還の約束を取り付けた。
佐藤が、いわゆる「核持ち込み密約」だけでなく、「基地自由使用密約」によって、沖縄返還を達成したことは、今日では広く知られている。
佐藤が沖縄返還を目指すと表明したとき、それは無理だ、沖縄の安全保障上の重要性を知るアメリカが沖縄を返還するはずがない、という見方が根強かった。それにもかかわらず沖縄返還を達成するためには、「密約」が必要だった。
沖縄が、日本に返還された後も、アメリカの核戦略の重要な一翼を担い続けることを、佐藤は容認した。そして沖縄の米軍基地が、沖縄返還後も、極東の安全保障に不可欠の役割を果たし続けること、佐藤は認めた。
本来は「事前協議」の対象であった日本における米軍基地をアメリカが「自由使用」することを事実上認めることによって、佐藤は沖縄返還を果たした。
これをもって沖縄返還ではなく、「本土の沖縄化」だと指摘する論者もいる。かつては、米国施政下の沖縄と、主権回復した日本との間で、米軍基地使用についても一つの線が引かれていた。
しかし以前と全く同じようにアメリカが自国の基地を使い続けている沖縄が日本の一部となったことで、日本の他の地域においても「密約」が適用されるかのような状態になった、という趣旨である。
本来は、対外行動を知りながら基地を提供するのは、集団的自衛権の行使に該当する。国際法学者らは、沖縄返還は、日本のベトナム戦争への関与を意味する、と指摘していた。
それにもかかわらず内閣法制局は、集団的自衛に日本は参加できず、沖縄が返還されてもそうだ、という主張を展開した。
これによってアメリカの軍事行動は、集団的自衛権を行使できない日本にとっては、すべてアメリカが勝手に行っている行為にすぎない、という話が作り上げられた。
集団的自衛権違憲論とは、集団的自衛権を行使している状態を避ける議論であったというよりも、むしろその状態を覆い隠すための詭弁だとも言えた。そしてその詭弁は、沖縄返還時に作られた。
1972年に実現した沖縄返還は、地政学的な運命を、巨大な虚飾によって覆い隠し、現実から目をそらした繁栄だけを求めるような風潮を反映したものであった。
1972年は、国際情勢では「デタント(緊張緩和)」が始まり、日本国内では強固になった「55年体制」の下で常勝政党となった自民党が、田中角栄に象徴される「ばらまき」「談合」「派閥抗争」の政党へと展開していった時代であった。
発足したばかりの田中角栄政権の下で、「集団的自衛権は違憲である」という内閣法制局見解が初めて文書で公式に表明されることになった。それは沖縄返還から半年もたたない1972年10月のことであった。「核持ち込み密約」「基地自由使用密約」を覆い隠す、まさに虚飾の憲法論だったと言えるだろう。
かつて集団的自衛権の論理を心情的に支える大きな要素であった米国施政下の沖縄は、今や日本の手に戻った。そこでベトナム戦争などに巻き込まれないためには、集団的自衛権の行使を否定する措置が必要だ。
冷戦構造を利用して米国の庇護に入りながら国際負担は負わず、高度経済成長を達成した日本が、今後もそのような姑息な外交姿勢を続けながら繁栄するためには、今こそ集団的自衛権は行使できないことにしておいたほうがいい。
1972年内閣法制局見解は、そのように考える政治勢力の意向を映し出すようなものであった。