秋葉原に「ネット右翼の街」というイメージを植え付けたのは誰か

ネット右翼十五年史【9】
古谷 経衡 プロフィール

政治に巻き込まれてゆく秋葉原

特にこの二人が問題にしたのは、規制に対する麻生の肯定的な態度である。このことをして麻生は秋葉原やオタクの味方などではなく、また秋葉原的な文脈を介する政治家でもない、と彼らは言い切っている。つまり麻生の秋葉原に対する態度は、複数の重大な誤解に基づいていたのだった。

一つ目は、そもそも秋葉原(アキバ系)として括られるユーザー、いわゆる「オタク」の嗜好は、麻生の想定するような(劇画などの)漫画作品とはかけ離れた、性的なニュアンスの強いもの、時に児童ポルノをも含むものに偏っていること。

二つ目は、秋葉原という街そのものは、そもそも所謂「保守」や「ネット右翼」とは関係が無いこと(前述)。

そして三つ目は、麻生を支持するインターネットユーザーが当時たしかに多数存在していたのは事実だが、彼らは秋葉原に行くような人種とは根本的に関係がなかったということだ。

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が、しかしいずれにせよ、一方的な誤解かそれとも意図的な「戦略」かはさておき、2005年頃を起点として、麻生太郎という自民党の大物政治家が、本来政治的には無色(場合によっては反体制)であったはずの秋葉原と「アキバ系」を、半ば一方的に政治へと巻き込んでいった側面は否定できない。

さらに言えば、2008年の麻生の首相就任以降、とりわけ「ネット右翼=アキバ系」というステレオタイプが定着したことには、この麻生の自民党総裁選に関連した一連の街頭演説活動における、秋葉原への異様なまでのアプローチが強烈に作用しているのは間違いないであろう。

そのステレオタイプが実態とかけ離れていたにせよ、幸か不幸か、それはやがてメディアによって拡大再生産され、不動のものとして定着していった。勿論、報道の側も麻生の誤解を正すだけのカルチャーの知識や文脈を有していなかったからでもある。

そういった意味で、麻生はまんまとこの時期、例え一時的にせよ既成の大手マスメディアを存分に手玉に取り、利用することができたと言えるだろう。

 

「野党・自民党」とインターネット

麻生率いる自民党は、2009年8月30日に実施された第45回衆院議員総選挙で歴史的惨敗を喫する。同9月16日には鳩山由紀夫を首班とする非自民政権が1993年の細川護煕連立政権以来、実に16年ぶりに誕生した。

その後、菅直人、東日本大震災と福島第一原発事故、そして野田佳彦という3人の首相を経て迷走に迷走を重ねた挙句、2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で再び安倍晋三率いる自民党が圧勝。約3年3ヶ月に及んだ非自民政権が終わり、自民党・公明党が連立する第二次安倍内閣が成立するに至ったのはご存知の通りである。

この3年3ヵ月間の間、「秋葉原」と自民党の関係性はどうであっただろうか。もっというと、「秋葉原と麻生太郎」や、「秋葉原と安倍晋三」の関係性は、この自民党野党時代に何か変化があったのであろうか。

まず2009年には、衆院選惨敗の責任を取る形で麻生が自民党総裁を辞職、かわって谷垣禎一が野党期の自民党総裁として舵取りを任される格好になった。

谷垣禎一は先の「ポスト小泉」を争う総裁選レースで有力視された「麻垣康三」の「垣」である。2000年の森善朗内閣(当時)倒閣運動「加藤の乱」で、首謀者である加藤紘一に対し「(あなたが)大将なんだから、一人で突撃はダメです」と、内閣不信任案賛成に突き進む加藤を涙を流し慰留する姿が大々的に報じられ、国民の間にもまだその記憶が残っていた。

谷垣に対する、2ちゃんねるをはじめとするネット界隈の反応は、麻生に対する熱狂的な反応から比較すると概ね冷ややかであった。

2010年7月14日には民主党政権下(菅直人総理)初の国政選挙である第22回参議院通常選挙が行われ、自民党は改選(121議席)第一党である51議席を獲得、民主党が参議院で少数野党となり衆参の「ねじれ」が発生した。

この「ねじれ」が民主党政権を最後まで苦しませることになったわけだが、同選挙において、谷垣総裁の最終演説地は埼玉県の越谷市(同市南越谷駅)であった。麻生太郎が、総裁選のレベルから秋葉原を街頭演説の中枢として意識していたのに比べて、対照的な動きであったと言える。

では、自民党が下野していたこの間、谷垣総裁時代にはインターネットと自民党が疎遠な関係にあったのかというと、違う。むしろインターネットと自民党を直接結びつける動きが、実は麻生太郎内閣時代の末期、つまり2009年ごろから沸き起こっていた。