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日本社会で増殖する「万能感に支配された人々」への大きな違和感

気づくと、私も万能感に浸っていた…

万能感に支配され議論する人々

最近、SNSなどにおける議論の不毛さと破壊性が指摘されている。

問題となるコミュニケーションでは、基本的に、相手の語っていることを正確に理解しようという意欲に欠けている。

熱心になるのは、相手の発言について「傷つく」何らかの存在を探すことだ。

あるいは、その発言の公共の利益を損なう面を指摘すること。相手の語る行為が非道徳的であることを示し、その語られた言葉、あるいは語った人をコミュニケーションの空間から排除すること、少なくとも信用のできない人物として印象づけることで、その影響力を削ぐことにコミュニケーションの努力のほとんどが傾けられる。

ここでは、双方が持ち寄ったロジックを戦わせることで、そのどちらもが洗練されていくことは起きえない。弁証法的な議論の展開はあり得ないのだ。

 

その代わりに、ただ痛めつけ合うだけの結果になることも、しばしばである。私が見るところ、それは次に説明するような万能感に支配されながら議論を展開する人が多いのにも関わらず、そのことへの自覚が乏しいからである。

「中立的な立場から被害者に共感する」という一見すると道徳的な実践が、人の心に誤った「万能感」を抱かせることがある。

その万能感が、科学などの信頼に足る他者の見解を軽視し、「加害者」とみなした対象に過剰な攻撃性を向けることに歯止めをかけなくさせる。

そして、そのような「万能感」を批判しているときの私も、まさにその「万能感」にとらわれている。このような万能感(ナルシシズム)が作り出す精神の監獄から、私たちはいかにして自由になることができるだろうか。

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『死霊』型の万能感とは何か?

『死霊』は、戦後の思想と文学に大きな影響を与えた埴谷雄高の主著とみなされる作品で、登場人物たちが哲学的な議論をくり広げる、思弁的で形而上学的な色彩の強い小説である。

1946年から書き始められ、病気などによる中断を含みながら1997年の死の少し前まで書き継がれた。難解であるために直接その書が読まれることは多くはない。しかしその内容が、現代日本社会における倫理観に及ぼしている影響は大きい。

『死霊』の第7章は「最後の晩餐」というタイトルがつけられている。ここでは世界宗教の教祖たちに対して、一人の近代的な日本人が軽蔑と拒絶を示し、徹底的な非難を行う様子が叙述された。

まず、イエスがその道徳的な瑕疵を責められる。責めるのは、「復活したのちにも飢えに飢えきったお前にまず最初の最初に食われた焼き魚」であり、最後の晩餐で食された「容赦なくこまかく微塵にひかれた小麦の粉」であり、「無残に砕き踏みつぶされた葡萄の粒」である。釈迦も、同様の批判にさらされる。

「苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも固い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も幾度も繰返して強く長く噛まれた生の俺、即ち、チーナカ豆」によって、強く弾劾される。

かつて私は、この倫理観の徹底と峻厳さに感動し、その思考が日本人によってなされたことを誇りに感じた。しかし現在は、そこに潜む万能感と頑迷さの問題点の方を、大きく感じている。

『死霊』型の万能感とは、どういうものであろうか。

まず、相手の権威はどのような者であっても承認されず、その語る内容に耳が傾けられることは一切無い。

「生命」としてこの世に存在する以上は避けがたい特質(この場合は「食べる」こと)を指摘して、その非倫理性を断罪する。批判の対象となった存在は、常に「加害者」として規定される。その「加害者」の罪悪を強調するために、「被害者」の痛みと損害は強調される。

このように構築されたロジックによる攻撃から逃れることは、どのような存在でも不可能だ。イエスや釈迦であってもそうだ。