# 金銭教育

なぜ現役経済記者が、娘のために「おカネの小説」を書いたのか?

日本の「金銭教育」に足りないもの
高井 浩章 プロフィール

借金は人生最大のトラップ

この「お金の怖さ、危うさ」を人生の早い段階で学ばせたい、という考えは個人的な経験が影響している。

小学校低学年だったころ、零細自営業だった親の会社の経営が行き詰まり、我が家はけっこうな額の借金を背負い込んだ。育ち盛り、食べ盛りの3人兄弟を抱えた両親が、お金で苦労する姿を見て育った。

といっても悲壮感はなく、「明るい借金生活」などと軽口が飛ぶ呑気な家庭だったが、給食代が滞り、自分専用の絵の具や書道セットを持っていない私はクラスで指折りの「忘れ物大王」だった。

ある程度の年齢になって我が家の倒産の経緯などを詳細に知るようになると、金融リテラシーの欠如が招く怖さを痛感した。

今でも私は「借金は人生最大のトラップ」だと信じている。

『おカネの教室』で、これでもかとこのテーマを掘り下げたのは、我が娘にこの最大の落とし穴を避ける知恵を早くに身につけさせたいという思いからだった。自営業者でなくとも、ローン型の奨学金やリボ払い、住宅ローン、連帯保証人制度などトラップはそこかしこにある。

Photo by iStock

この「危うさ」への目配りと並んで、私がもう1つ、金銭教育で重視するのは、「人間の脳はお金を理解するようには進化していない」という前提に立つことだ。お金そのものや金利、リスク、確率といった概念は、生まれてせいぜい数千年あるいは数百年しか経ってない。

生物としての人類はお金に慣れていないので、このトリッキーなものに簡単に振り回される。ニュートンは「バブル」の語源ともなった18世紀の株価急騰・暴落劇「南海泡沫事件」で今の貨幣価値で億円単位の大損を被った。人類史上屈指の天才でも簡単に詐欺師の口車と大衆の狂気に乗ってしまうのだ。知識の詰め込みではなく、腹に落ちて身に沁みないと、「教育」にはならない。

 

肌感覚でなければ伝わらない

では、どうするべきか。まず欠かせないのは、肌感覚だ。

『おカネの教室』では10円玉から1万円札あたりまでが講義の中心で、100万円は風変わりな脇役として登場する。身近な金額から説き起こさないと、地に足のついた基礎体力はつかない。

経済用語を極力避け、普通の言葉で説明することも重要だ。

『おカネの教室』では「お金を手に入れる6つの方法」の読み解きがストーリーの大きな柱になっている。中学2年生の2人は、「かせぐ」「もらう」「ぬすむ」「かりる」「ふやす」という使い慣れた言葉から経済のカラクリを学び、最後にお金の本質を握る6つ目の方法にたどり着く。このプロセス自体が一種のミステリーになっていて、ページをめくらせるエンジンになっている。

連載を構想中のある晩に「この6つの動詞で全ての経済活動を分類できる」と気づいたのが、この作品の骨格が浮かび上がった瞬間だった。

もう1つ、金銭教育で重要なのが、英語で言うエンゲージメント(関与)だ。私見ではこれが日本の金銭・経済教育の弱さの根っこにあると思う。「自分事として考える」視点が弱いのだ。

最近、娘に中学・高校の公民のテキストを借りてざっと見てみた。実によくまとまっている。人物はアダム・スミスからケインズ、ピケティまでカバーし、需要・供給曲線のメカニズムはもちろんのこと、中央銀行の「最後の貸し手」論まで出てくる。

だが、残念ながら、このテキストから学んだ内容は、テストが終われば大半の生徒の頭からきれいさっぱり消えてしまうだろう。自分の世界とのつながりを具体的にイメージできないものは、その場の詰め込み限定の知識でしなかい。結局、「経済」を初めて自分事として真剣に考えるのは、多くの場合、就職活動期まで先延ばしになる。

エンゲージメントという面で言えば、公教育では投資家として資本市場に参加することの意義や心得といった視点も不足している。資産運用・形成のあり方の「軸」を持たずに大人になり、ハイレバレッジFXなど一攫千金の超ハイリスク取引にうかつに手を出せば、回復不能な大けがをしかねない。レバレッジは借金の変化球だ。やはり「かりる」に人生のトラップは潜んでいる。