「新潮45」休刊…あるライターがみた「その時までに起こったこと」

知らされたのはあまりに突然で…
伊藤 達也 プロフィール

「新潮45」の死が「自死」である理由

25日に発表された新潮社・佐藤社長の言を紹介します。

〈しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します〉

何を言っているのか分かりづらい。実際に傷ついたマイノリティへの謝罪はないのか。いろいろな反応がありました。

本稿のこれまでの議論で言えば、この「試行錯誤」とは「読者が求めるものの追求」を指すでしょう。また「厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」というのは、差別表現について、編集部だけでなく、法務・校閲を含めた出版社としてのチェック機能が働かなかったという意味でしょう。一般論として、法務担当者や校閲者による指摘の最終的な採否を決めるのは編集部であり、担当編集者や編集長がそれを容れなければ、記事はそのまま世に出てしまいます。

でも、もしかしたら本当は、編集部での「厳密な吟味」のうえで企画は作られていたかもしれません。だからこそ検証が必要なのであり、ネットでも展開されている「検証号を出すべきだった」という声に私は同意します。

 

他方、「自由な言論の場が、抗議によって潰された」という声もありますが、自由なだけの言論の場であれば現在、広大に開かれています。そうした世の中で出版物が担うべき役割は、しかるべきチェックを経たもの、質の高いものを提供することであり、大手出版社として知られる企業の存在価値は、突き詰めればその一点に宿ると思います。

そのような意味で、「新潮45」の「死」は、「自死」だったのです。

ノンフィクション媒体が絶滅へ向かういま、同誌の休刊が業界に与えた衝撃は小さくありません。論壇が賑やかなころなら、例えば「月刊現代」があったなら、この問題について批判記事が載り、激しく議論が展開されるようなこともあったのかもしれませんが、そうした雑誌そのものの力が弱っています。

ネットメディアがノンフィクションの担い手を受け継ぐ。それはあり得る未来です。

しかし、雑誌というモノが売れ、その収入で取材費や満足な原稿料を払うという紙メディアの体制に追いつくには、まだ道半ば。代替しうる仕組みが整う前に、ノンフィクション誌がまたひとつ消えたこと自体は、痛恨です。

さらなる検証を続ける

正義を気取るわけでも、また自分がそうした仕事をしていると言いたいわけでもありませんが、ノンフィクションという表現手段は、巨悪を撃つことも、苦しむマイノリティを救うことも、報われない誰かに光を当てることも、隠された真実を明らかにすることもできます。

そして何より、「読者が求めるもの」とは違う価値を示すことができる。自分の主義主張、培ってきた常識とは食い違うルポルタージュや論説を読むこと、場合によっては書くことさえも、新たな視座をもたらしてくれることがあるのです。

今回、新潮社創業者・佐藤義亮氏の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という言葉が取り上げられました。

しかし歴史に照らせば、かつて私たちは良心に従って、LGBTをはじめマイノリティを弾圧していました。良心に従って、虐殺行為に走ることだってありました。その良心が常に正しいかどうかも絶えず見直されるべきでしょう。

このようにいうと、悪しき価値相対主義だと言われるかもしれませんし、ポリティカル・コレクトネスにも反するのかもしれませんが、私たちが何を許すべきでないかという問いは、どれだけそれに疲れ果てようが、いつの時代にも語られ続けなければならないと思います。

論が長くなりました。本稿もまたそうであるように、自説を開陳する場がこれほどまでに開かれ、誰もが発信できる時代に、それでも出版というもの、ノンフィクションというものの役割はどこにあるのか。今回の事件を期に、当事者として、さらなる検証を続けるつもりです。