「新潮45」休刊…あるライターがみた「その時までに起こったこと」

知らされたのはあまりに突然で…
伊藤 達也 プロフィール

自分が担当なら、止められたか?

一方で、杉田水脈議員の寄稿を読んだとき、こんな考えも頭によぎりました。

「私が担当編集者だったら、この原稿が私のところに上がってきたときに、止められただろうか?」

本稿で改めて具体的な指摘はしませんが、問題点には気づけただろうと思います。仮に自分が杉田氏に取材し、ライティングをしていれば(同様の趣旨の記事になったとしても)、炎上は防げたのではないかという思いもあります。

しかし、こと編集者の立場だったとしたら、止めることができたかというと、すぐに結論は出せません。

雑誌というものの良さでもあり危うさでもあるのは、「雑誌は編集長のもの」であるということです。編集長が「読者が何を求めているか」について全責任を負う。だからこそ、編集長が代われば雑誌の色も変わるわけです。一般的に記事のタイトルもすべて編集長がつける、ないしは手直しをします。

また、多くの大手出版社で、雑誌の編集は社員編集者が担っています。会社員として、個人的な考えと食い違う原稿を担当する(場合によっては、書く)ことも少なくありません。私自身、もともとは週刊誌の編集者出身ですので、そのような経験があります。

むしろ、自分の思想信条や想いは脇に置いて、より「読者が求めるものを作れる」編集者こそが優秀とされ、評価される側面さえあることは否めません。

 

しかし、「読者が求めるもの」は時にエスカレートすることがあります。さらに、頭の中にある「読者が求めるもの」を突き詰めるあまり、編集部が、実際に求められている以上に過激な言説に走ってしまうこともあります。

例えば今回の問題も、おそらく編集部の主観としては「杉田氏や小川氏の論説に共感するような読者が求めているもの」を、所属する編集者個人がどう考えるかは度外視して、「提供した」ということになるでしょう。

残念ながら、どれほど啓蒙を進めても、マイノリティに対する不安や差別意識を抱く人は一定の数存在します。そのような読者のニーズに応えるために、巷間「ネトウヨ雑誌」や「ヘイト本」といわれる出版物が生まれています。

そのような言説が本となり書店に並ぶ背後には、実際にそれを求めている生身の人がいる。その事実こそがむしろ恐ろしいということもできます。別のところでは、ヘイトを行う政治家が出てくるということは、そのような政治家を支持する有権者が現実にいるということです。

「ヘイト本」は、これもまた残念なことに、ある程度は売れます。「新潮45」についても、「保守路線への転換後も売上は伸びていない」と評されているようですが、もし路線を変えずにいたら、より大きく部数を落としていたかもしれません。少なくとも編集部はそう判断していたはずです。

こう書くと、読者に責任をおしつけている、とお叱りを受けるかもしれません。書き手は、心から自分が書きたいと思ったものを書く。真に自分の言説に責任を持つ。そうした書き手と読者との橋渡しをするのが、出版社の正しい姿だとは思います。

いまの商業出版の現実は、多かれ少なかれ「売らんかな」で動いているのも確かです。そうであっても、表現が生身の人間を傷つける危険性については責任を持つことは当然のことです。

一方で、「この原稿で行く」という編集長の判断があったとき、その決定に従うか、自分の良心・正義、信条に従うかーー後者を選択したいのはもちろんですが、そう簡単ではないというのが日本の出版業界の、とくに現場のリアルだといえます。

上記のようなしくみのすべて、つまり「読者が求めるものを作る」という発想そのものが、反省すべきものであり、時代遅れなのかもしれません。そのような価値創造の方法論自体を、考え直すべきときなのかもしれない。「面白いもの」の定義そのものについて、自問自答が必要でしょう。