大震災から7年半、事実やデータだけでは見えなかった「新しい復興」

なぜ「現場の男」は考え方を変えたのか
石戸 諭 プロフィール

「当事者」とは誰なのか?

しかし、小松の考え方はときに厳しい批判にさらされた。

「福島県民は傷ついてきた。外部から福島を悪く言う人たちを理解しようなんておかしい」
「当事者である福島県民以外の声に耳を傾ける必要はあるのか」
「科学的な考え方を理解しないで不安だっていうやつなんか理解しなくていい。勉強させるべき」
「福島産を食べろって言うべきではないか」

といったように。

だが、と小松は立ち止まってしまうのだ。「福島県民や当事者とは誰のことを言っているのか」と。

福島の問題についてネガティブなことを外部から言ってほしくないという気持ちもわかる。だが、一方で単純でわかりやすい属性を押し出すことは、「外部」を排除してしまうのではないのか。

小松は言葉を選ぶように、ややゆっくりとした口調で話す。

《TOKIOがやっていたDASH村って浪江町にあるんだよね。いま浪江にある津島地区の住民が「ふるさとを返せ津島原発訴訟」をやっている。

700人近い住民が加わっていて、これは無視できない数まで膨れ上がっている。ある日突然、原発事故によって暮らしを奪われた人の想いって本当に切実なんだよ。

国はDASH村を復興拠点にしたいとか言うんだよね。復興と風評被害克服のシンボルにしたいとかなんとか。でも、これだけ住民訴訟が起きているところでどうすんだって俺は思う。

あの報道がでてきたとき、今までSNSで「当事者以外は福島を語るな」って発信していた人たちが「津島はDASH村を受け入れろ」って言ってるんだよね。

津島に暮らしてきた人が「津島のことは津島で決める。中通り(福島市や郡山市などを含む福島県の中部エリア)の人は黙っていてほしい」「当事者以外は津島のことは語らないでいただきたい」と言ったらどうするんだろうなと思った。

当事者とか福島県民って言葉が単なる都合のいいポジショントークに使われているだけになっているんじゃないかな。》

そのポジションを使えば、反論されにくいものになる。自分は「正しい存在」でいられる。だが、そうした立場を伴った発言はときに壁をも作る。

福島のことは福島の人たちが決めればいいのだから黙っておこう。そこで関心もありえたかもしれない交流の回路も閉じられ、「当事者」だけが残っていく。あるいは「当事者」が認めた外部だけが残る。それは外部を「友と敵」で線を引くというだけのものになる。しかし、「当事者」もまた局面が変われば「外部」になっていく。

一旦、回路を閉じてしまえば、その先にあるのは内向きのポジションの取り合いだけだ。果たして、それを「復興」と呼ぶのだろうか。

《結局、当事者って誰なのかって話に尽きると思う。都合よく当事者を利用してきたって話でもあると思うんだよね。

それは俺だってそう。当事者だから、いわき市に住んでいるから、かまぼこ屋さんにいるから、だから話を聞いてくれって言ってきたし、自分の声を大きく見せるために利用してきたところもある。復興が進むならそれでいいと思ったから。

 

でも、あるとき怖くなったんだよね。ツイッターとかだと自分の声が実際よりも大きくなっている気がしたし、「科学的に正しくない声も聞くべきではないかな」って話をしたら、それまで応援してくれていると思った人たちからも一気に反論されてさ。そこで目が覚めた。

これじゃまずい。別のやり方でやらないといけないって。》