「日本人」はいつまで「単一民族」として語られるのか

「ハーフ」の存在から日本史を問い直す
下地 ローレンス吉孝 プロフィール

想像力をもって人間関係を築いていくこと

私はこれまで「ハーフ」と呼ばれる人々へのインタビューを重ねてきた。

ここに示す事例は、決して「ハーフ」を代表する意見ではないし、「ハーフ」であれば全員が同じ経験をしているわけではもちろんない。しかし、インタビューをしてみると、それぞれが似ている経験を話してくれる場合もある。

やはり多く聞かれるのは、見た目との不一致という経験だ。

外見から外国人とみなされてしまった場合、日本生まれ日本育ち、名前が日本的で、日本語で話していて、立ち居振る舞いや仕草も「日本的」であったとしても、国籍を確認されたりする。銀行口座の開設の際や、家の賃貸契約の際など、事あるごとに国籍を確認されるという方もいた。

電話でバイトの面接に応募したり、ごみの収集を役所に頼んだりする際などに、たとえ日本語で話していても、申し込みの名前がカタカナであったりすれば、やはり外国人として認識されてしまう場合がある。

日常生活の中で、自分の一挙手一投足に注目が集まり、「この部分は日本人だ」「この部分はやっぱり外国人だ」と、あらゆる人からあらゆる場面で繰り返し言われることは、実にしんどいことである。

また、東アジアのルーツの人の中には、逆に海外のルーツが想定されず、人間関係の中でカミングアウトしなければならない緊張した状況に立たされる場合がある。

また、相手がこちらに韓国や中国のルーツがあることを知らずに話している時、その国への差別的表現を聞き、いたたまれない気持ちになり精神的な苦痛を経験する場合もある。

このような問題は、単に「イメージ」とか「認識」の次元に留まるものではない。就職差別や結婚差別など、日常生活ではより具体的な問題にもつながる場合さえある。

「ハーフ」のイメージは、日常生活に深く食い込んでさまざまな影響をもたらしてしまう。「そこまで深刻に捉える必要はないよ」と他者が言うことは、具体的な不利益をこうむるかれらの経験をないがしろにしてしまっている。

何気なく言ってしまった言葉で、言われた相手がどのように感じるのか、その相手がどのような不利益をこうむるのか――。

これは「ハーフ」の問題に限らないが、この「多様性」の社会の中で、相手のポジショナリティ(社会的立場性)に意識を向けて、想像力をもちながら人間関係を築いていくことは、どの場面でも必要なのではないだろうか。

 

目標ではなく、すでにそこにある現実

現在、2019年度の移民受け入れ拡大の議論が本格化している。そこでは「今後、多様な人々を日本社会が(もしくは日本人が)、どのように受け入れ共生していくのか」といった声が政府関係者や報道からも聞こえてくる。

そしてここでもしばしば、多様性の受容、多文化の共生の議論は「今後の課題」「将来の問題」として設定されてきている。

わたしはこれまで「混血」や「ハーフ」を事例としながら、日本社会の中にある多様性について調べてきた。

問題は、かれらの存在が、かれらの人生が、すなわちこの社会がすでに含みもっている多様性が、これまで十分に語られてこなかったことである。

「多様性」や「ダイバーシティ」はこれから日本社会が目指すべき目標なのではなく、すでにそこにある現実なのである。

「違った人たちを受け入れよう」、「共生を実現する社会を目指そう」というメッセージが聞こえてくるが、そもそもわたしたちの社会はすでに多様な背景をもつ人たちと隣り合わせで暮らしている。地域の隣人として、友達として、恋人として、家族として、すでに日本社会の一部となっている。

「日本社会」とは何か? 「日本人」とは何か? この社会で暮らすすべての人にこうした問いが向けられている。これは私たち一人ひとりの問題なのだ。

(※1)「混血」という言葉は差別用語とされ一般的には使用すべきではないことがNPO団体から訴えられている(詳細はこちら)。また「ハーフ」という言葉についても、場合によって、人によっては差別用語としてとらえられる場合もあれば、単にメディアで用いられるような肯定的な意味として用いられることもあるため使用には注意が必要だ。この記事では、研究者としての立場から、過去に語られた言葉として「混血」、現在一般的に知られている「ハーフ」という言葉をそのまま引用する形で鍵括弧で記載している。また、二つの文化を持つという意味で「ハーフ」ではなく「ダブル」を用いるべきだといわれる場合もある。この「ダブル」も、当事者から肯定的に受け入れられ積極的に使用される場合もあれば、違和感を覚える場合もあり、いずれにせよ使用には注意が必要だ。わたしは、研究者としてどちらを使用すべきかを当事者や周囲に迫るという立場ではなく、本人たちが自らを語る名指しやカテゴリーを大切にしつつ発信を続けていきたい。

(※2)日本人論において「単一民族」としての日本人像は繰り返され定着していった。しかし、これらの日本人論におけるサンプルの偏りや論拠の不明瞭さはすでに多くの書籍で指摘されている(杉本1996; ベフ1997; 吉野1997)。具体的な文献は以下のとおり。
杉本良夫, 1996, 「日本文化という神話」井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座 現代社会学――日本文化の社会学』岩波書店, 7-37.
ハルミ・ベフ, 1997, 『増補新版 イデオロギーとしての日本文化論』思想の科学社.
吉野耕作, 1997, 『文化ナショナリズムの社会学』名古屋大学出版会.

(※3)柏崎千佳子(2010)、原知章(2010)、岩渕功一(2010)、ポーリン・ケント(2014)、などは多文化共生の議論における「日本人」と「外国人」という単純な二分法の発想を批判している。具体的な文献は以下のとおり。
柏崎千佳子, 2010, 「日本のトランスナショナリズムの位相―<多文化共生>言説再考」『多民族化社会・日本―<多文化共生>の社会的リアリティを問い直す』明石書店, 267-292.
原知章, 2010, 「『多文化共生』をめぐる議論で、『文化』をどのように語るのか?」岩渕功一編『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社, 35-62.
岩渕功一, 2010, 「多文化社会・日本における<文化>の問い」岩渕功一編『多文化社会の<文化>を問う―共生/コミュニティ/メディア』青弓社, 9-34.
ケント・ポーリン, 2014, 「多文化共生政策が誰との『共生』を目指しているか?」『国際文化研究』, 18:53-60.