「ハーフ」という言葉が登場するずっと前、日本では「混血」「混血児」という言葉が用いられていた。
時代を遡れば、日本で西洋医学を広めたシーボルトの娘・楠本イネや、フランス文学者でありファーブル昆虫記などを訳した平野威馬雄(戦後には「混血児」をめぐる救援活動も展開)など著名人や活躍した人々もたくさんいたのである。
戦後には、米兵と日本の女性との間に多くの子どもたちが生まれている。家族や養子としてアメリカへ移住した子どももいたが、日本で暮らす子どもの中には母子家庭や養父母に預けられ日本で育つものも数多くいたという。
そして、貧困に陥るケースや、苛烈ないじめを経験するケースが社会問題化した。また、小学校入学をめぐってこの子どもたちを「同化」するか「隔離(保護)」するかという議論も盛り上がり、これらは「混血児問題」として社会を賑わせた。
私の母親もその一人だ。朝鮮戦争の際に米国からやってきた祖父と、沖縄の米軍基地で働いていた祖母との間に生まれた子である。
当時の文部省や厚生省は、深刻化するいじめや差別、貧困の問題を把握していた。
特に文部省は、各学校の教師によって記録されたデータを収集・編纂した「混血児指導記録」を、数年間に渡って全国の学校に配布。ここには、いじめによって自殺を考えてしまう小学一年生、差別的な発言を受け続け学校に通えなくなり寺に預けられる少女など、深刻な事例が各学校から報告されていた。
しかしながら、当時の文部省は「問題はない」という姿勢を崩さなかったのである。
「混血児」は日本人だから無差別平等に対処する、という指針によって具体的な支援対策はとられなかった。そのことが、かえってかれらに対する差別やいじめの状況を温存させてしまうこととなった。そして、「混血児」の存在そのものが見えにくくされてしまった。
60年から80年ごろ、日本が経済成長し、世界の中でも存在感を高める中で、「日本人論」や「日本文化論」といったジャンルの書籍が大量に出版され、多くのベストセラーが生まれた。
その中では単一な「日本人」像が繰り返し記述されたが、そのなかで「混血」や「ハーフ」の存在は、意図的か無意識かはわからないが、ほとんど記載されていない。
単一民族としての「日本人」というイメージは、かれらの存在そのものを無化する力として世間に広がっていた(※2)。
「ハーフ」の人々が日常生活でもメディアでも「外国人扱い」されてしまうのは、このような固定的な日本人像によるものである。