明治の終わりに「大衆の時代」の始まりを告げた、若き弁士たちの肖像

大衆は神である(20)
魚住 昭 プロフィール

丁未倶楽部

円城寺は優れたオルガナイザーでもあったらしい。明治40年(1907)春、島田三郎らとともに政界の腐敗一掃を訴える「政界革新同志会」を創設する一方、早稲田や慶応など大学・専門学校の弁論部に働きかけ、学生連合組織「丁未(ていび)倶楽部」を誕生させた(明治40年の干支は丁未<ひのとひつじ>)。(註2)

彼は、日比谷焼き打ち事件を目の当たりにして、元老や藩閥が政治を動かす時代は去り、大衆が主役の時代が到来したと思ったのだろう。大衆動員には、核となり、手足となって働く部隊が必要だ。その役割を「丁未倶楽部」に期待したのではないだろうか。

実際、「丁未倶楽部」は大正3年(1914)、シーメンス事件(軍艦建造をめぐる海軍の汚職)を機に起きた山本権兵衛内閣打倒運動の実働部隊として働くことになる。

「丁未倶楽部」の創立メンバーだった東京帝大法科1年の寺田四郎(のちに報知新聞副社長)はこう語っている。

〈「萬朝報」に円城寺清という大政治記者がいた。早稲田大学出身の人だが、私は懇意にしていた。そのときのわが国の社会情勢が甚だ面白くないものだから、ひとつ、学生団体をつくって社会に訴えようということになった。それについてはむろん相当金が要る。当時、演説会場として錦輝館というのが神田にあったが、そこを借りるにも相当金がかかった。その金は円城寺先生が全部出してくれるということであった。その当時、早稲田大学に田淵豊吉(のち衆院議員。関東大震災時の朝鮮人虐殺を糾弾する演説で知られる)なんていう有名な変わり者、それから江尻恭平、比佐(ひさ)昌平(のち衆院議員)君らがおったので、(彼らと)私らが中心になって明治四十年、丁未の年に丁未倶楽部というのをつくった。おおむね官立大の学生は官庁的で、私立大の学生を軽視しており、私立大学生はひがみがあって、妙な感情がわだかまっていた。我々が官立大学生にこの倶楽部に入ってくださいと言っても、なかなか丁未倶楽部に入らない〉

すでに雄弁界のスターだった鶴見や前田多門(たもん。のち文相)ら法科の上級生は一高校長・新渡戸稲造の門下で「修養派」と呼ばれ、政治志向の強い(原文のママ)「丁未倶楽部」とは一線を画した。

「丁未倶楽部」に入ったのは、法科1年の大井静雄(一高出身。のち弁護士)や、東北評論ですでに登場した大沢一六(二高出身)、リベラリストとして戦前政界で活躍することになる芦田均(あしだ・ひとし。一高出身。外交官から衆院議員、戦後に首相)ら寺田の同級生たちだ。彼らが緑会弁論部誕生の原動力となる。

丁未倶楽部発足から約1年半後の明治42年3月、法科2年の寺田は小石川植物園で開かれた緑会で弁論部の設立を訴えた。弁論ブームの波に乗って帝大にも弁論部をつくり、丁未倶楽部と連携するつもりだった。多くの学生や教授の梅謙次郎(うめ・けんじろう。民法学)らが弁論部設立に賛成した。

それから各高等学校出身者ごとに担当者を決め、弁論に興味をもつ学生たちを勧誘することになった。

註1:井上義和「文学青年と雄弁青年─「明治40年代」からの知識青年論再検討」(『ソシオロジ』第45巻3号、ソシオロジ編集委員会編、2001年)より。
註2:佐藤能丸「天山 円城寺清略伝─『大隈伯昔日譚』復刻に寄せて」(『早稲田大学史記要』第5号、1972年)参照。

〈つづく〉