明治の終わりに「大衆の時代」の始まりを告げた、若き弁士たちの肖像

大衆は神である(20)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

東京へ転居し、長男が生まれ、ますます実業と立身出世への思いを強くする清治。ちょうどそのころ、東京帝大法科大学で弁論部が発足するなど、「言論で世の中を変える」という機運が日本社会を満たしつつあったーー。

第2次弁論ブーム

この時代のキーワードを列挙すると、暴動と天皇と社会主義だろうか。「富国強兵」のスローガンの下で増税や徴兵に耐え、やっと世界の一等国入りを果たしたのに少しも報われない、という大衆の昂揚感と不満が入り混じりながら膨れあがり、臨界点に近づいていた。

そんな空気を反映してのことだろう。明治30年代末から第2次弁論ブーム(第1次は明治10年代の自由民権運動期)が起きる。明治40年2月には、都下学生連合演説会が一高弁論部の主催で開かれ、東京帝大法科の鶴見祐輔(社会学者・鶴見和子、哲学者・鶴見俊輔の父。政治家・後藤新平の娘婿)らが学生論客として注目を浴びた。

帝京大学准教授・井上義和(教育社会学)によると、進学志望の中学生に読まれていた博文館の雑誌『中学世界』には、弁論関係の記事が明治40年に初登場し、大正期までつづくが、明治41、42年が質量ともに際だっている。

とくに41年連載された「学生論客月旦(げつたん)」は、雄弁術の一般的な解説ではなく、一高・帝大や早稲田の学生弁士の具体名を挙げながら紹介していくことで、中学生が憧れる学生弁士をカリスマ化していった。のちに、さまざまな局面で講談社の歴史と深くかかわる鶴見祐輔も「学生論客月旦」などで繰り返し論及されるうちに伝説的存在になったひとりである。(註1)

ポピュリズムのふたつの顔

第2次弁論ブームの初期に目覚ましい働きをするのが、この章のはじめに講和反対運動のリーダーのひとりとして登場した円城寺清(えんじょうじ・きよし、明治41年10月、盲腸炎のため38歳で急死)である。「行動する言論人」といわれた円城寺は佐賀県出身、早稲田の前身・東京専門学校を出て、大隈重信系の『郵便報知新聞』に入った。

大隈の自叙伝『大隈伯昔日譚(おおくまはくせきじつたん)』の筆録者として文名を高め、明治32年(1899)、黒岩周六(涙香<るいこう>)の招請で『萬朝報(よろずちょうほう)』の論説記者となった。円城寺が、日露開戦をめぐる『萬朝報』の非戦論から主戦論への転換に深くかかわった経緯は前にふれた。

円城寺は外交では強硬派だったが、国内政策では民権・平等主義者だった。早くから普通選挙運動に加わり、「地租を全廃して農民の痛苦を減らせ」と訴える『地租全廃論』も発表した。彼の中では膨張的なナショナリズムと、国内的な平等主義が同居していたのである。

これは円城寺に限ったことではない。筒井清忠(きよただ)の『戦前日本のポピュリズム』によると、日露戦争中に『萬朝報』は「民権拡張の好機」という論説で「時局は挙国一致の義務を要求すると同時に、又民権拡張の権利を与えつつあり、即ち義務のある所又必ず権利あり」と民権拡張=普選論を主張した。

東京毎日新聞社長の島田三郎(衆院議員)も「国家の安危を分担する者は国政に参与する権利あるべし」、したがって戦後は大いに「選挙権拡張を主張せん」と述べた。陸羯南(くが・かつなん)の新聞『日本』も「兵役を負担する国民、豈(あに)戦争を議するの権なしと謂わんや」と訴えた。

つまり日露講和反対運動は、日比谷焼き打ち事件のような暴力的大衆を登場させる一方、のちの護憲運動・普選運動も準備したのである。ナショナリズムの暴発と、国内の民権拡張・平等主義。二つの方向性は共存し、せめぎ合いながら、日本の針路を決定づけていくことになる。