超微小な筋肉の線維が、巨大なパワーを発揮する、その筋肉のすごさには驚くばかりだ。さらに、さまざまな生物の運動の謎や神秘が、筋肉のメカニズムによりわかってきた。
カメレオンの舌が超高速で獲物を捕らえる、二枚貝が殻を固く閉じ続ける、ハヤブサが時速350kmで急降下する……etc.。その一例である、カブトガニが起き上がることができるしくみとは?
カブトガニは古代の三葉虫が繁栄している時代に出現し、以後現在までその形態をほとんど変えることなく生存し続けている、文字通り「生きた化石」である(図1)。我が国のカブトガニは体長60cmに達し世界最大で、体長の約半分は尾である。この尾はその付け根の周りを200度もの広角度で回転し得る。
この尾の高角度の運動は尾の付け根の上下にある1対の骨格筋のはたらきによっておこる。実は以下に説明するように、この尾の運動はカブトガニの生存に不可欠なのである。
ガラパゴス島には巨大なゾウガメが棲息している。ゾウガメ同士が争う時は、互いに相手を、分厚い甲羅を下にしてひっくり返そうとする。ひっくり返されたゾウガメは足をもがいてもどうにもならず、餓死することになる(図2)。カブトガニもその体形からみて、逆さにひっくり返ったらゾウガメと同じ運命を 辿るであろう。
ところがカブトガニを、その甲羅を下にしてひっくり返すと(図3A→B)、その尾が下に動いてまずカブトガニの体を半ば持ち上げる(図3B→C)。ついでカブトガニは甲羅の前端を地面につけたまま左右方向に回転し、もとの姿勢を回復してしまうのである(図3C→D)。
海中において、カブトガニは甲羅の下の肢を動かして遊泳するが、魚類のように体の平衡をとる鰭を持たないので、海中で逆さまになる機会が多いであろう。したがってカブトガニの尾の広角度の回転能力は、その生存に不可欠であるに違いない。
カブトガニの尾を動かすのは横紋筋といわれる横縞のある筋肉である。この筋肉から分離した筋線維を構成する筋節の長さは静止状態で約8㎛で、脊椎動物の骨格筋線維のそれよりはるかに長い。そして極めて長い筋節長で、力(最大収縮張力)を発生する(図4)。
脊椎動物骨格筋線維の筋節長・張力曲線に比べて、はるかに広範囲の筋節長で大きな張力を発生することがわかる。長い筋節長にわたって最大張力を発生するこの筋線維の特性は、カブトガニの尾の広角度回転のために必要である。
カブトガニが海中でひっくり返る瞬間、その尾は多くの場合上を向いているだろう。つまりカブトガニの正常な体位からみれば下を向いているだろう。
カブトガニの尾は、これを上に上げる尾部挙上筋(telson levator)と、これを下に打ち下ろす尾部打ち下ろし筋(telson depressor)によって上下に運動する。ひっくり返った体をもとにもどすのは挙上筋である。
この挙上筋は、まず打ち下げ筋によって筋節を引き伸ばされた状態から出発して短縮し、力を発生し、カブトガニの体を持ち上げねばならない。通常の骨格筋の筋節長・張力曲線のように、最大張力を発生する筋節長の範囲が狭く、この範囲より筋節長が増大しても減少しても発生張力が低下するのでは、この危急のさい役にたたない。
カブトガニが尾を上にしてひっくり返ったとき、尾の挙上筋は打ち下ろし筋によって、静止状態(尾が正常位のカブトガニの体にたいして尾が水平位置にあるとき)の筋節長の約2倍に引き伸ばされている。もし脊椎動物骨格筋線維が、静止状態の筋節長(約2μm)の2倍(4μm)に引き伸ばされたら張力発生はゼロになってしまう。
しかしカブトガニの筋線維はこのような状態でも張力を発生し短縮することができる。