同性愛の科学——”生産性”をめぐる議論に寄せて

日本人の脳に迫る⑨

性的指向や性自認は生理学的、生物学的な要素の強い資質である。

これをめぐる議論は、本来は政局とは無縁のものであるはずだ。ただ、LGBTはマジョリティではない(=マイノリティである)ことから奇異な目で見られたり、社会的に不当な扱いを受けたりしがちであったために、その状況をどうにか解消しようと政治的な手続きを求めた結果、本質的にはまったく別の問題、イデオロギーや党利党略をめぐる他者の確執などなどに巻き込まれてしまってきた……というのがこれまでの性的マイノリティの歴史における残念な部分と言えるだろう。

当事者にも忸怩たる思いがあったのではないかと想像される。性的マイノリティあるいはそのアライにカテゴライズされるだけで政治色がつけられてしまいかねないというのは、当人にとっては愉快な状態とは言えないだろう。

 

同性愛は生得的か後天的か

保守的な人々の中には、「同性愛は個人的な選択の結果」と主張して、性的指向と性的嗜好をあえて同一視するかまたはややエモーショナルな理由でこれらの区別をつけることが難しいという人もいる。そんな中で一部の同性愛者の活動家は、同性愛が生得的であると主張し、科学的なエビデンスが、より広い性的マイノリティの受容につながることを望んでいる。

しかし性的マイノリティの権利を主張する人自身の中にも、セクシュアリティが生物学的に決定される、あるいは出生時に固定されているという考え方に抵抗感を持つ人もいる。

「セクシュアル・フルイディティ」(そのときどきで好きになる性別が変わり、特定されないというもの)をカミングアウトする海外セレブリティもおり、性的指向が人生の中途で変わる可能性があるというのがその主張の骨子である。ややファッション的な要素も感じられるが、たしかに生得的な要因のみで性的指向が完全に決定されるというのは、科学的にも乱暴な議論ではあるようだ。

近年では後天的な要因により性的指向が変わることを裏付けると考えられる生物学的知見も、ヒトでもヒト以外の生物でも報告されてきている。

ただ、基本的には、性的指向が完全に環境要因だけで決まるわけではない。『ブレンダと呼ばれた少年』ディヴィッド・ライマーのケースを振り返れば、「性自認は遺伝的なものではなく、完全に後天的な環境要因による」という考え方が誤りであることがはっきりとわかるだろう(同掲書:ジョン・コラピント、村井智之訳、扶桑社)。

ディヴィッドはごく幼い時期に行われた外科的な割礼手術に失敗して陰茎のほとんどを失い、「性自認は後天的である」という説の強力な支持者であった性科学者ジョン・マネーによって、女児として育てられることになった。

しかしディヴィッドは男児らしい遊びを好み、自分が女であるという自認を得ることはなかった。母親からは報告を逐一受けていたにもかかわらずマネーはこれをひた隠しにし、女児として育てることに成功したと報告した。

ホルモンを投与したり膣の造成を勧めたりするマネーの指導に母親は従順にしたがったが、ディヴィッドは女児らしい性質を示すことはなく、周囲からは奇異な目で見られた。転居を試みても精神的に追い詰められ、やがて母親は自殺未遂、両親は離婚する寸前にまで追い込まれた。

ディヴィッド自身は、14歳になったときに父親から経緯を聞き、本来の自分の性である男性に戻ったが、38歳のときに拳銃で自分の頭を撃ち抜いて自殺した。

セクシュアリティ関連遺伝子の働き

実際にセクシュアリティ関連遺伝子はいくつか見つかってはいる。だが、これがどのように同性愛者としての脳を構築するか、異性愛者ではそれが機能しているのか、機能しているとしたらどのような役割を果たしているのか、そしてそもそも同性愛とは生物学的にどのような意味を持ち、なぜそのような遺伝子が保存されているのかについて、これまでの研究を整理しておくのは価値のないことではないだろう。

本稿では、政局に絡む問題は各人の判断に任せ、私からはシンプルに科学的な知見をいくつかご紹介していければと思う。すでにご存じのことも多いかもしれないが、この記事が思慮深い読者の、知の涵養の一助となれば幸いである。